Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』や五木寛之の『生きるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はただの文学好きの好事家。Peace.

An American's Reborn and a Japanese's Compromise

 Tonight, I talked to my friend, who is the only friend to whom I talk frequently on phone, for almost an hour. He said to me that he was always irritated by many of his co-workers because they were not motivated highly enough to make things better. I said to him," I understand that. I feel the same with almost all the Japanese people living in Japan because they don't like making a discussion instead of reaching to the easiest compromise." He was happy listening to me.

  I thought twice, after hanging up, about what I was thinking during the conversation, what there was in my mind, and why/how I said so. Yes, I said I don't like one of the Japanese characteristic personalities. That's what I am always feeling on a daily basis. If so, how do I know that? It came up with an idea of an American characteristic personality, which I thought was the most outstanding one: Christianity.

  An American is born and dies twice, the first genetically, secondly religiously. This seems a peculiar custom and a culture for most of us Japanese. A Japaese doesn't think that way. We don't like discussing but making a compromise. That's because we know the discussion never makes things better, and living in harmoney is the one and only solution to get along with others. So, we don't talk much about the definition of life and death, but just live one's life and die one's death. If you tend to doubt about the solution and choose the American way of thinking, you would be dismissed. Nobody except your close friends and families cares you. Ultimately, you choose to find yourself comfortable at any living place if the Japanese prohibited.

  Personally, it doesn't matter to me where I am and what I am, and how I am identified by the others. Sooner or later, I die my death in the end. After my death, everybody turns out to be nobody, everything is translated into nothing, and every kind of being disappears. By the way, I like an American mind more than an Japanese one for whatever. Whatever you say, I like that much better. Conscience says so. That's it.

論文制作0日目

 これから先の半年間、私のスケジュール帳は2019年2月11日(月曜日)の以前と、以降に区別される。修士論文を提出するまでは、修士論文の制作に集中(と緩和)の連続する日々であるだろう。今日は制作の0日目だ。残り丁度140日間である。もっと正確に言おう。一日は24時間から成るので、24*140=3,360時間である。私は一日大体7時間は寝る。食べたり、散歩したり、休憩したり、バイトに行ったり、買い物したり、時には論文から離れようとして友人と遊んだりするだろう。恐らく平均して一日合計5時間は、非・論文的活動に充てられるだろう。つまり、「あの日」が来る迄、実質的に残された総時間は、3,360/2=1680時間(二ヶ月強)である。この残された時間をどのように使うのか、自由にならないことを承知しつつ、前進するためには、振り返る時間がないことが分る。

 振り返ってはならない。前進あるのみである。猪突猛進こそモットーにするべきだ。計画は何度も立てては失敗してきた。まずは、計画を立てるために前進しなければならない。逆説的だが、私にとっての真理である。私は計画を立てないまま走り出して、ある程度身体が温まってきたら、ようやく、見通しが立てられるのだ。前を向き、腰を据え、全力を出さずに、静かに、清潔に、黙して(ブログではぶちまけて)進む。

 

現実の苦味・幻想の妙味

 現実の苦味を知っている人には、是非とも幻想の妙味を知ってもらいたい。その逆も然り。幻想のドツボに嵌っている人には、是非とも現実の喜びを知ってもらいたい。世の中は、現実と幻想の二つの側面があり、それぞれに、味わいがあり、深みがある。つまり並列すればこうなる。現実的味わい、現実的深み、幻想的味わい、幻想的深み。具体的に言えば、現実的味わいとは、失恋である。失職である。不合格通知である。悩み苦しみの根源的な人間関係に起因する。現実的深みとは、婚活である。求職である。再挑戦である。悩みや苦しみを受け入れて、尚、再び立ち上がろうとする態度のことである。幻想的味わいとは、例えるなら、深夜の麻雀である。深酒、酩酊の状態である。煙草の吸い過ぎで吐き気がするような、世界がメリーゴーランドのように回転する、錯覚状態、下手すれば錯乱状態である。幻想的深みとは、麻雀後の朝焼けである。あの朝焼けの比類のない美しさに見とれて立ち止まる時の恍惚である。アパートに帰って着の身着のままベッドの倒れ、夕方になって「嗚呼、人生下らない」と思う時の心地よい幻滅である。深酒で、一人、帰り道。咄嗟の吐き気に負けて道端に吐いて急いで立ち去るときの追われている様な疾走感である。四つを纏めよう。私にとって、現実とは幻想であり、幻想とは現実であり、味わいとは深みであり、深みとは味わいである。表象とはいつも両義的である。ただそれだけが言いたかった。

論文を書くための必要十分条件

 論文を書く。これは大層難しい事業の様に思える。事実、私にとってそうだったのだ。恥ずかしい話である。或る人にとって、論文とは、最も簡単な作業の一つであるそうだ。羨ましいことこの上ない。私にとって論文とは、自己欺瞞との闘いである。私は保身のために嘘をつくことが生理的嫌悪感故に出来ない。それは、私の人徳によるものでは決してない。これは神経症的なものだ。だから、論文を書くとなると、まず最も大切になる「主張」そして「説明」の二つが、書けないのである。なぜならあらゆる主張には、特に文学的なテーマの場合、そこに虚偽が含まれているからだ。だから私は一度書いた「主張」を、何度も何度も何度も何度も(恐らく一生涯に渡って)悩み続けなければならなくなるのだ。私は「既に」嘘つきだからこそ、もう嘘をつきたくないのだ。これは強迫的な観念であるに違いない。

 しかしながら、今さっき、母親との3時間に及ぶ口論の末に、私の主張が通った。つまり、論文を仕上げることが、決定された。これは最早、疑問を挟む余地はないということだ。悩む必要も無く、無心で書けばそれでよい。この目の前の論文を書く事は、論文を書く事を為す前に、既に決定されている。それ位の覚悟を以てことに当りたい。

 深刻ではない。深刻とは状態にすぎない。真剣でもない。現にこうやってブログを立ち上げて回想するくらいの余裕がある。不真面目でもない。真面目でもない。腹が座ったのだろうか。落ち着いている。なぜ心が落ち着いているのか。分かりにくい表現で申し訳ないが、つまりこんな感じだ。もう、論文は「本当に」書き切った。後は手を動かすだけ。そんな感じである。

 分かりやすく言おう。私が論文を書くための必要十分条件はただ一つ。腹が据わること。それだけである。

我慢の語源学

 痩せ我慢と忍耐について考える。字引によれば、前者は、無理に我慢して平気をよそおうこと、後者は、苦しいことや腹立たしいことをたえしのぶこと、我慢すること、とある。つまり、痩せ我慢とは、忍耐の変化形である。我慢の限界に達しているにも関わらず、平気であることを他人に知らせようとする意志が、痩せ我慢の根っこにあるのだろう。もしも、誰も知った人が居ない町に一人で暮らすのならば、その人間は「痩せ我慢」する必要を感じないだろう。忍耐で十分であるからだ。もし、生まれ育った町で、親戚づきあいも頻繁に在り、どこの店に入っても、道を歩いていても声を掛けられるような地元民が、忍耐することはとても難しいように思われる。忍耐は孤独の城で培われ、痩せ我慢は民衆の暮しの中で培われるのだろう。

 痩せ我慢が忍耐よりも劣っているとは、決して思わない。可哀そうだとか、助けてあげたいという憐憫の情が微かに湧く程度である。どちらの性質を持っていたとしても、しかしながら、権利の意識も、同時に兼ね備えるのが望ましいように感じる。権利の意識が難しいならば、自信や矜持や自己肯定感といった正感情でもいい。そういうバランスの取れた精神の在り様を求めることは、我慢や忍耐に傾くよりもずっと困難であり、また、挑戦し甲斐の有る行為であるように思われる。

 ところで、我慢することは美しいだろうか、汚らしいだろうか、または善いことなのだろうか、悪いことなのだろうか、突き詰めて言えば、真実に至る確実な方法なのだろうか。多くの識者は、少しの我慢は美徳である一方で、我慢し過ぎるのは逆効果であると説く。私もその考えに大方同意するのであるが、すこし前提を欠いた議論の様にも思われる。「そもそも」我慢とは何であるのか。こういう時は字引に頼るのが手っ取り早い。というのも、言葉の本来の意味を知るのは、通例の意味と全く異なる場合が多く、それゆえ語源学的考察は、前提を考える場合に大変示唆に富むことが経験上多いからだ。

 私は、多くの場合、三冊の辞書に頼る。新潮社の現代国語辞典、角川書店の漢和中辞典、岩波書店のSaito's Idiomological English-Japanese Dictionary(通称、斎藤英和)である。本当は、広辞苑言海やOxford English Dictionary(通称OED)などの本家本元の辞書を手元に置いておくべきなのだろうが、予算的にも、書架のスペース的にも不足しているし、また、あまりにも網羅的過ぎる辞書には、愛着が湧きづらいのだ。だから中辞典くらいがちょうどよい。また、特に斎藤英和のような、一人の大家によって編纂された辞書には、読む辞書としての価値が備わっており、言葉(訳語)の一つ一つを噛締める様に味わうことが出来る。

 話が逸れてしまった。そうそう、我慢の定義である。我慢は英語でpatienceであるから、この三冊の辞書の定義を紐解いてみよう。

 新潮:①(仏教)自分を偉いと高ぶること。②意地を張ること。強情。③たえしのぶこと。こらえること。辛抱。

 角川:「我」の本義は殺すこと。①(仏教)自分の才能をたのんで人を押しのけること。②我意を張ること。我執。③(国訓)こらえ忍ぶ。しんぼうする。忍耐。

 斎藤:patience【名】(気長な)忍耐.(不平を云わずに労苦に耐える)辛抱.(with any one―人に対して怒りを忍ぶ)堪忍. wait with patience 気長に待つ. A teacher should be armed with patience. 教師は堪忍の鎧を着る(教師たるものの資格は如何なる愚鈍な生徒に対しても立腹せぬ事)... the patience of Job(聖書より)最大限の忍耐.

 三冊の字引に共通する「我慢」の定義は、この言葉が宗教的性格を帯びていることを示唆している。仏教的な「我慢」については、慣用的な意味と異なる意味(自尊感情、より意固地になること)を持っているのに対して、聖書的なそれが、ヨブ記に見られるような、神が人間の精神力を試すときに与えた艱難辛苦に耐え忍ぶ極限状況を指している。このような語源的、文化的な比較はいつも興味深い。つまり我慢には、仏教的「我慢」、聖書的「我慢」、そして国語的(日本的)「我慢」の三つがあることが分る。

 話を元に戻せば、私が当初賛同していた、「少しの我慢はいいけど、無理はダメ」というのは、かなり近代的な人間観に基づいていることが分る。生理学や認知科学(特にスポーツ科学)的な、新たな「我慢」の誕生である。この近代的「我慢」と、伝統的、宗教的「我慢」のいずれかが真なる我慢であるか。仏教者たる私には、まず仏教的な我慢を推薦するより他ないが、しかし、多様な我慢を認めることも急いで付け足さなくてはなるまい。人の数だけ認知の仕方、宗教観、文化の受容があるように、我慢の数も人間の数だけある。