Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

罪無き人々の群れ―錦糸町駅にて

邪魔

迷惑行為

マナー違反

利用規約違反

デリカシーが無い

人を急かす

礼儀を知らない

役に立たない

説明が長い、詰らない、分からない

意気地がない

鬱陶しい

高慢チキ

煩い

臭い

汚い

気色悪い

分際を弁えない

嘘つき

不快、生理的に受け付けない

自意識過剰、被害妄想、大袈裟

自信過剰、ナルシスト

人を小馬鹿にしたような顔

人を喰ったような態度

不遜、傍若無人、我儘 

頑固、意地っ張り

イヤらしい、エロい、淫靡な服装

恐い、ヤクザ風の服装と態度

不真面目

でぶ、ガリ、不健康そうな体

知ったかぶり

禿

飲んだくれ 

貧しい

老いている

ダサい

中毒症、依存性、他律的

のろま、愚図

運が悪い

無資格・未経験、非日本国籍、女、性的マイノリティ、身体障害者精神障害者、35歳以上、逮捕歴あり、入院歴あり、片親、離婚歴あり、地方出身、帰国子女、自動車免許無し

センスが無い

常識が無い

すぐキレる、怒る、手を出す

眼鏡

夫婦、バカップル、パートナーといちゃつく、公然と卑猥な事をする

天然パーマ

肌が荒れている、シミ、火傷、切り傷がある

歯並びが悪い

背が低い

腰が曲がっている

女、子供、老人、外国人

交通規則を守らない

群れて動く、道を占拠する、威嚇する

目つきが悪い

人相が良くない

自分勝手

愛想が悪い

融通がきかない

日本語を話さない

けばけばしい

働かないのに権利を主張する

子供を殴る、蹴る、怒鳴る、無視する

子供を甘やかす、玩具にする、躾けない

路上で喫煙する、演説する、酒を飲む、菓子を食う、座る、寝る、物乞いする、盗む、撮影する、監視する、ながらスマホをする、歌う、踊る、走り廻る、喧嘩をする、スケートボードに乗って路面を傷つける、大声で下らない話を話す、屯う

困っている人を助けない、声を掛けない、居ないものとして無視する

舌打ち、睨み、しかめっ面、いかり肩、ドシドシと歩く、ジロジロと眺める、無関心・無感動・無関係を装う

急発進、急停車、クラクション、威嚇、挑発、怒鳴り散らし

店のトイレや用具の無断使用

思わせぶりな態度、ウィンドウショッピング

条例違反

約束を破る

口が悪い、命令口調、声を荒げる、差別用語放送禁止用語、穢れた言葉をお構いなしに使う

お節介

視姦

ポイ捨て

幸福または不幸を撒き散らすような行為

嘲笑

詰らない冗談

分かりにくい説明

疑うような目つき

謝らない

キャッチ

媚び諂い

年齢不相応な服装と話し方、笑い方

机を汚したまま席を立つ

トイレを汚したまま帰る

サービスを過剰に要求する

本人以外誰も聞きたくもないであろう個人的な問題や苦悩を声高に公の場で暴露する

独り言を大きな声で話す

統合失調症

 

 私はこのような人々を愛する。何処までも、何時までも、どんな方法を用いてでも、私は彼らと共に在りたいと願っている。

人生論(暫定版)

 人生とは何かについての暫定的な結論を下せば、即ち、循環の階層である。螺旋階段の比喩が最もしっくり来る。私は同じ事を繰り返し反復している様に錯覚しているだけで、実は、何も同じ行為などあり得ない。日常生活に於ける習慣的な行為ですら、その仕草や見方や姿勢や態度や関心は決して一様ではないのだ。立つ、座る、歩く、走る、息を吸う、息を吐く、珈琲を飲む、煙草を飲む、何かに注視する、何かを聞こうと耳を傾ける、何かに指先で触れる、衣服を身に着ける、髪を整える、髭を剃る、靴を履く、鏡の中を覗き込む。日常生活は行為の群れによって幾らでも分割できるが、その一つ一つの挙動は全て異なる。または、医学の見地からすれば、私の体の内部では既に老化が始まっている。昨日よりも今日は、感じられない速度で、まるで雲が流れるような速さで、しかし確実な速度と調子で、死に向かって一歩一歩、歩みを進めているのだ。何かが出来なくなって行く。体だけでなく心も同じだ。体と心を結びつける魂のような存在を想定したくなるのは、この現実から目を背けたいからだろう。死を恐れないためには、または死から己を遠ざけるためには、何かしら不死の存在が私の内外を媒介していると信じねばならない。それは、とても人間的な営みだろうと思う。

 魂の存在について、私は肯定も否定も出来る立場にない。だからそこ、そうあってほしいと祈る事が求められている。世界平和を祈る気持ちと、己の不死なることを祈る気持ちは、コインの裏表の様な関係だと思わざるを得ない。(左翼主義の不可解さはそれがオカルティズムと不可分の関係にあるからだろう)または、私は特定の政党を支持したい訳でもなく、宗教法人に所属している訳でも、無頼派を気取りたい訳でもない。無論、無神論者でもなく、独我論者でも、観念論者でも、汎神論者でもない。要するに、私はアイデンティティというものを、最早あまり信用しなくなったのだ。余りにも恣意的な言葉だ。近代的自我と呼ばれるものを、私は終に自分の中に見付けることが出来なかった。否、そんな話に興味が尽きた。飽きたのだ。

 何か、誰か、もしくは何事かに出会い、ときめき、浮足立ち、憧れる。そして、それを獲得しようと模索する。そうして、段々とそれに対しての興味関心が薄らいで行き、緊張感が解れて締りがなくなり、慣れていく。慣れは必ず飽きに連なり、もう取り返しの付かない地点まで飽きてしまったら、誰・彼・それは忘却の彼方へと消え去ってしまう。そうして、その対象は再び私の前に現れるまでの間、存在から非存在へと変化してしまう。この一連の関係は、どのような対象にも当て嵌まる。憧れて、慣れて、飽きて、忘れる。この循環から抜け出す人・物・事は、家族や親友や恩師や恩人、英語の勉強、ラップ音楽、ドラム演奏、故郷(H県、A県)、ニューヨーク以外に、私の中に存在しない。

 

 

毎日面白くなくていい

 毎日面白くなくていい。毎日辛くて大変なのも嫌だけど、かと言って毎日お祭り騒ぎみたいなのはもっと嫌だ。毎日天国がいいか、毎日地獄がいいかと問われたら、予想を裏切って地獄派の人が圧倒的に多いと思う。私も地獄の方を選ぶだろう。地獄には変化がある。天国には変化は無い。私のような人間は変化が無いことに耐えられないのだ。幸福に耐えられない。幸福とは安全である事であり、安定した社会を営んでいる事であり、健康的な食事を摂取し、健全な肉体を有していて、毎瞬間毎瞬間、隣人愛が花開いているような地域に暮らしているのだ。驚く事も、恐怖に身悶えする事も、悲しむ事も、恨む事も、嘆く事も、後悔する事も、自責の念に囚われる事も、此処には無い。

 私の思考は両極端を想定する事から始まる。生活について考えるのならば、天国と地獄を先ず考える。そうしないと落ち着かないのだ。議論が浮つくのだ。定位置を定めない事には、何も始まらない気がして、そちらの方に気が散ってしまうから。だから、私にとっての幸福な生活とは、天国と地獄の間に拡がる中間地帯の何処かに在る。まずは全体の領域を制限しない事には、方法も目的も見つからない。

 要するに、私の現実感は、両極に聳え立つ観念の構造体によって支配されているのだとも言えよう。これは仮説というよりも実感である。対象として科学的に考察するには、余りにも情緒的で、混乱していて、存在論的な疑いの残る疑念である。私は何かの間に立っていると感じるのは、きっとニーチェの「ツァラトゥストラかく語りき」を聞いてしまったからだろう。私は最近その種の講演や番組を頻繁に観るようになったから、視聴覚メディアの多大なる影響を認めざるを得ない。そうだ、これは私の発見ではない、これは又聞きのさらに又聞き。翻訳され、重訳され、改訳され、改編され、現代語訳され、誤訳され、上書きされ、誤植され、大事な物が抜け落ちた後に語られた事だ。私は全ての原典に当たることが出来ないから、この無能さは仕方ないのだ。恥じる事すらも出来ぬ事だ。絶対に到達も獲得も認識も不可能な事は、諦めることすらも出来ない。

 私は、きっと何も生み出すことは出来ない。私が生産したと思うものは全て過去からの遺産の相続に過ぎず、私の情緒は全て誰かの情緒のほんの一部に過ぎず、私の記憶も私だけのものではなく、見知らぬ人々が恣意的に書き換える事のできる脆弱な代物で、私という個人も、私の記憶と同様に脆弱であり、大した価値も役目も備わっていない。これは紛れもない事実性のある認識だ。そして、事実はいつだって私の味方なのだ。