Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

教育現場における驕りと怨みの発生について

 教える者は本質的に傲慢であり、形式的には幾らでも相手の立場に「降りて」やることが出来るが、その内心では教わる者に対して驕りがあるのが普通であり、また或る程度の傲慢さ(軽蔑、冷笑、支配的気分と呼んでもいいだろうが)が認められなければ、教育的活動は成立し得ない。教わる者は本質的に怠惰であり、形式的には幾らでも相手に「従順」に振舞うことが出来るが、その内心では教える者に対して怨みを持つのが普通であり、また或る程度の怨み(嫉妬、怒り、蹂躙された感覚と呼んでもいいだろう)が認められなければ、教育的活動は成立し得ない。

 

 問題は、発生原因を突き詰めることではない。恐らくは、教師と生徒の間には上下の関係が既に結ばれている。それは個人間同士の内面で生じる訳ではなく、両者の共有する文化的な強度に依存するだろう。医者と患者、弁護士と依頼人、聖職者と信者といったある専門的な職業に於いて、一方的に「○○先生」と呼び、一方的に「○○君(さん)」と呼ばれるような上下関係が生ずる場合には、必ずやこのような情緒問題が横たわっている。

 

 権威者と服従者という関係では、恐らくこのような複雑な気分にならないだろう。その関係性は、現代の民主国家日本に於いて、相対的に過ぎないし、仮に親と子の間であっても「絶縁」という選択は一般に可能である。無論、職場における人間関係も、学校における上下関係も、部活動に於ける先輩後輩関係も、地域生活に於ける地元・余所者の扱いの差についても同様である。その土地から離れ、ありとあらゆる縁を断ち、新たな土地を探し、新たな関係を構築しようと思い立つことが出来る。または、たとえどれだけ恵まれた境遇に安住している場合に於いても、敢えて義理を通す為に、己の命を賭してでも危機的状況に自分を追い込むことがある。奴隷的身分に見を置くことを甘受するのだ。この場合、先に述べたような情況と重なるところがある。だが、本質は個人に於ける政治的判断であり、情緒問題とは一線を画していると言えるだろう。

 

 教育について話を絞ろう。自分の体験の話を一つ二つしてみる。私は塾講師のアルバイトをしているのだが、20坪にも満たない狭い教室は個別指導ブースと自習スペースに分かれている。分かれているといってもその間には仕切りも何もなく、指導中も自習中も、基本的に声が混じり合って騒がしい。私自身、そのような環境で勉強することは不可能であり、ここにわざわざ来ている(または来させられている)生徒たちを見るにつけ、「可哀そうに、こんなところに閉じ込められて」と不憫に感じることも少なくない。無論、私の心配など露知らず、勉強する者は勝手に勉強し、やらない者はいつまで経ってもやらない。勉強の是非も「個人の自由」に任せられているのが現状であり、少なくとも他人の勉強の邪魔になってはならないという暗黙の了解だけが空気を支配している。

 

 指導する生徒の年齢(学齢)は、小学二年生から浪人生まで(7歳から19歳)幅広い。年齢層以上に、家庭環境や学習状況、健康上の理由によって個別指導を求めている場合が多い。ではどのような子どもたちがここに集っているのだろうか。二項対立構造で考えてみれび、「出来る子vs出来ない子」、「活発な子vsおとなしい子」、「男の子vs女の子」「大人っぽい男の子vs子供っぽい女の子」、「躾けられている子vs躾けられていない子」、「元気な子vs元気がない子」、「学校が好きな子vs学校が嫌いな子」、「優しい子vs乱暴な子」、「今が愉快で楽しそうに生きている子vsギスギスした関係に疲れて詰まらなそうにしている子」等々。挙げれば挙げるだけ、遣り切れない想いは分割される。

 敢えて、一つの軸を取り出してみる。「ぼく・わたしは勉強ができるはずだと感じている子vsぼく・わたしは勉強ができないと信じ込まされている子」である。言うまでもなく両者には途方もない差がある。偏差値的にも、心理的にも、指導中の顔の表情や学ぶ姿勢にも、大変如実に表れるように思う。言わずもがな、自分が馬鹿だと信じている子は、こちらの問いかけや示唆には気が付かない。心ここにあらず、といった感じで、教える側からしても痛ましくもある。ある女の子は、自分が出来ないことが私によって間接的に知らされて余程悔しかったのか(暗に知らされるのが一番応えるのだ)、眼に涙を浮かべながら、時にそれを拭いながら指導を受けていた。ああ、と思った。こんな申し訳ないことを俺はこの子にしてしまっているのだ、恨まれて当然だ、と思った。

 

 勉強ができない、とは子供にとって罪の意識と同等であるかそれ以上である。努力が出来ない、根性が足りない、元々頭が悪い、要領が悪い、運が悪いなどの自分に原因を求める場合がある。または、自分の親も馬鹿なんだから、馬鹿親から生まれた自分が馬鹿な子どもなのは仕方ない、更に、自分の所属している群れ(クラス、トモダチ、部活、地元など)は、みんな馬鹿ばっかりだから、ここで暮らしている限り、もう駄目なのは分かり切っている、といった自他を含めた環境に原因を求める場合もある。昨今叫ばれている「自己肯定感」なる観念も、「ぼく・わたしは勉強ができる」と思っている(と傍から見える)子どもたちには無関係である。かと言って彼・彼女らが心理的に成熟しているとは言い難い。彼らの多くは、勉強が出来るのと引き換えに罪意識が乏しい場合も少なくないのだ。一見すると純真に見える優等生も、或る場面、獰猛な存在に豹変する。言葉の端々に、眼差しの奥に、無遠慮な仕草に、それが現れているような気がする。(私の思い込みに過ぎないこともしばしばある)また、ある高校一年生の男の子は、「終わってる」(彼はこの言葉を頻繁に使う)周りの同級生や担任教諭に対する敵意を表現するために、日夜勉強に励み、敵愾心を自分の勉強の原動力に変換することで自意識を辛うじて保っているようである。(彼については、私自身の経験とも重なり、殊更無下にできないのであるが)何れの場合にも、問題になるのは知・徳・体の中間層の希薄化、中間的・媒介的人間関係の場の不足ということだ。

少年の美徳と青年の不安、その先の壮年への準備

 成長するという事は、何かを獲得することであり、何かを得れば必ず何かを失うのである。知識を得んとすれば機会を失い、機会を得んとすれば健康を失う、というように。

 私は少年であった。その頃に身につけた美徳は正直さであった。私は青年になった。その頃、正直さは悪徳であると知り、その代わり生の不安というものを知った。私の青年時代もいよいよ終わりを告げようとしている。私は壮年になろうとしている。否、壮年である自分を受け入れつつあるといった方が正しい。そのような定義づけをした途端、以下のことも徐々に受け入れねばと思えた。

 

・独身であるということ

・故郷から離れていること

・定職に就いていないこと

鬱病が治りつつあること

・実家に寄生して居ること(父との不仲の原因)

・弟に先を越されているということ

・地元の仲間、同級生、先輩後輩などと比べて、見劣りする(数字上)給与しかもらっていないということ

・孤独感が深いこと

・知性を孤独の代償としてきたこと

・アルバイトですら人間関係に悩まされていること

修士論文を依然として完了していないこと

・劣等意識というものに囚われていること

・自分の事が好きでないこと

・自意識過剰に苦しんでいること

・これから先、この世で生きて行くのが不安であること

 

 不安とは付き合って行くべき友である。また、それは孤独との闘いでもある。孤独とは闘うに値する強者である。ヘミングウェイ風になってきたので、この話題は避けよう。別に私は人真似がしたい訳ではない。自分らしさなんて、個性なんて、求めずして得てしまうものだろう。それは手術後の傷のように英雄的である。だが、誰もその傷が出来た経緯について知りたがらないのだ。

 

 私は自分自身でありたいと思う。誰かになりたい訳ではない。否、私は何者かに為れると思って居た頃が懐かしい。「一角の人間」「大人」「立派な人間」「尊敬される人間」「勇敢な人間」「縁の下の力持ち」「相談相手」等々。それはどこまでいっても観念的な存在である。観念的であるとは、要するに、自己と合一にならないということであり、だからこそ追い求めてしまう対象であり続ける。夢幻のようなものだ。となれば、私は自然に浄土真宗的になる。または、広く言えば宗教的になる。それは善いことでもなく、悪いことでもなく、ただ静かに祈っているだけである。問いかけることに疲れた末の希望である。祈り。様々な宗教書、経典、聖典に触れること。それで心が落ち着くなら仕方ないと思っている。ただこれは趣味とは一線を画して置かねばならない。単なる知識の一分野として宗教を扱ってはならない。比較宗教学や文化人類学民俗学として宗教の問題を扱う際は、まずこの点に注意しなければならない。即ち、功利主義実用主義、あらゆる種類の成功主義とかけ離れんとする気持ちがなければ、宗教に触れてはいけないと思う。それが最低限度の資格であると思う。

 

 何でも知ろうとすることも、性的な欲望も、承認欲求も、成功への憧れも、離れた場所が確かに在る。知り得ないこと、交わり得ないもの、求め得ないこと、達成し得ない地位というものが、この世の中には確実に存在する。それを確認するために宗教書に触れる。または、神社仏閣を巡ったり、説法を聞いたりして見聞を広める。自分の原点を探そうということでは決してない。(それは寧ろ文学者の仕事である)歴史に包摂されている社会の在り様を見つめるための立脚点を探ろうとする、と言った方が近い。近代以前の社会について思いを馳せる時、宗教と科学と常識が渾然一体となって働いていたのを知る。

 

 歴史について知りたいと思う。古典に帰れ、とは壮年のテーマになるだろう。歴史とは何か。未だ私はよく知らないのだ。少なくとも知らないことには気が付いている。それだけ成長したということだ。

悲しみに包まれるということ

 殊更難しそうな事を語りたがる性分で、一度たりともその論は反駁されたことも無ければ批評されたことも無く、とどのつまり自分勝手な意見であり自意識過剰の産物であるのは仕方ないのであるが、それでも尚語ることを止めようとしない。語るとは、私の場合、一種の病気であって、虚空に向かって叫んでいるばかりだ。真空の中の魂、こだましない響き、反射しない光のようなもので、本質的に無意味である。言語の特質として階層性ということが謂われるが、確かに無限に言葉を連ねることは出来る。だが、それが全く私的な空間の内部に閉ざされているままでは、やはり、虚しさだけが募るばかりで、発散も拡張も、況や深化など望むべくもない。表現の自由が先ず保障されて、そして思想・良心の自由が保障されるという順序も自ずと理解される。日記を書く自由、私小説で個人史を編纂する自由、信仰を告白する自由なども、結局それらが出版されたり、公の眼や耳に届かないのだとすれば、遣り甲斐、生き甲斐、真価は発揮されないだろう。萎んでいくだけだろう。そして、一切はなし崩しで済まされてしまうだろう。

 

 ブログで意見を発表するのが表現の自由の体現であるのか、私は甚だ疑問である。匿名の言語空間が、所謂「公的空間」であるのか。いや、もっと正直に訊ねれば、今のこの世の中に公な時間や空間や風土、必死になって守りたいと思わせる位の豊饒な存在があるのだろうかと、そんなもの無いと分かっているから、こうしてブログという仮想空間に逃げ込んでいるんじゃないか。孤独である。

 

 結局の所、東京で実家に身を寄せようが、愛知で疑似的な故郷を模索しようが、本来の故郷である広島に帰ろうが、故郷など、何処にも存在しないのである。それは、今、この数年間の間に消失したのではなく、自分史の内部に於いても、実家の中にも、学び舎の中にも、散歩道の中にも、風景の中にも、関係の中にも、お店や工場やレストランや公園や友人の家の中にも無いのである。

 

 故郷を探すことなど、やっぱり止めた方が良い。それは家系図を紐解いても、DNA鑑定をしても、家族の絆を取り戻そうと躍起になっても、見つかるのは孤独しかない。自己喪失体験を重ねるだけだ。人生は旅である、なんて気障なセリフを吐いても一向に満足しない。結局、自分は故郷によって包括されない存在である。自分だけではないだろう。きっと、多くの人々が故郷を求めて集い、孤独を深めているに違いない。

 

 偽物は、どこまでいっても偽物に過ぎない。故郷のようなものを求めるのは、もう止めよう。正直に故郷が無い事を悲しもう。となれば問題は、如何にして悲しみを味わい、享受し、豊かなものに変質させるのかである。喪失の事実をトラウマのように扱ってはならないと思う。または怒りや絶望といった激情に安易に結び付けるべきではない。もっと、悲しみを、悲しみのままに、受け流すでもなく、漂うでもなく、真正面から見据えるような態度でなければならない。目を逸らしたり、耳を塞いだり、手をこまねいたりしてはならない。悲しみをそっと抱き寄せる。悲しみと一体になる。悲しみを具現化する、または繊細なタッチで描写し、時に克明に語り、語りつくせない無力さに突き当たって、更に悲しみの色を深める。

 

 生きるとは苦しみであるというよりも、悲しいものである。悲しみに包摂されんとする者は、素直で謙虚であり、慎ましく憐れである。また、悲しみとは最も共感しやすい感覚である。悲しみとは無国籍なもので、一般的なもので、相互理解の架け橋となる。何事に於いても、対象の理解に於いて、悲しみは本質であり、原型であるだろう。

 

 もっと悲しみについて知らねばならない。それは、結局、自己を知るということの最終目的地に連なるだろうと思うからだ。

 

 悲しみについて書こう。正直に書こう。浸るのではない。漂うのでもない。悲しみと己を重ねて、悲しみの色を豊かにしよう。それはどんな形式も、色彩も、文体も受け入れてくれる気がする。悲しみは、私の物ではなく、誰の物でもないのだ。私たちの原風景なのだ。そうだ。彼岸の景色だろうか。朧げな月夜。浜辺の風。春先の川の冷たさ。家路に就く母と子の背中。または葬儀の案内の看板。遠く霞んで見える山。土の香り。新製品の説明書。古書店の佇まい。仕事場に向かうバスの窓から見える誰も居ない野球場・・・挙げていけばキリがない。だが、その懐かしさは、決して私の所有物ではない。それだけは確かな事だ。

 

 なぜだろう。とてもいい文章が書けるような気がするのは。