Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

残日録(20)

 午後三時に起床。猛烈な眠気。修士論文は体力を奪う。だが、昨日は相当進んだ。序章から三章までの全体の翻訳が一応できた。後は、大量の手直しと修正だけだ。一応、残りの課題を挙げておこう。終章の日本語文とその英訳、参考文献の読解と引用、参考文献欄の完成、日本語の要約、目次、カバー、印刷、である。

 アルバイトが17時から19時、ご飯を少々、散歩を1時間するとして、修論開始は、20時から24時までの4時間だ。できるかい。やれるかい。できるさ。やれるさ。

 

残日録(21)

 嗚呼。修士論文。私を苦しめないでおくれ。私に真実だけを与えてくれ。痛みと引き換えでなく、そんなものはもうとっくに支払っている筈だろう、違うかい。もう支払いは済ませたはずなんだ。僕に残された時間は、あと500時間と少し。でも、実際はもっともっと少ないんだ。僕だって寝ないといけない、食べないと、歩かないと、遊ばないと、そしてアルバイトをしないと生きて行けなんだ。そう、修士論文君よ、僕は生きて行かないといけない。だからお願いだから、僕の言うことを聞いて、僕の思うように、心地よい翻訳を、知の躍動を、生の感興を僕におくれよ。もう随分君と語り合ってきたつもりだけど、もしかしたら、君はもう僕のことを忘れてしまったのかもしれない。だって、僕はずっと君を避けて来たから。今日からあと500時間だけ付き合って、なんて、キャバクラ嬢とのアフターみたいな都合のいいことは言わない。僕は、君とこれからも付き合っていくつもりなんだ。ほんとだよ。在野の研究者になりたいんだ。エリック・ホッファーや、シモーヌヴェイユや、小室直樹みたいな、生き方をしてみたいんだよ。だから、これからも僕には論文という無二の親友が、君が、必要だ。もう、僕にはあまり多くが残されてない。両親は日に日に年老いて行く。弟はこの前結婚して幸せな家庭を築こうとしている。仲の良い友達とは離れ離れだ。昔の恋人は、多分僕のことを忘れてしまっている。そうなんだ。僕は孤独を選び取ろうとしているんだ。だから、僕は、今日、今この瞬間、ラップ研究に全身全霊で取り組もうとしているんだ。それが僕の出来る最善のことだと思って。

 嗚呼、哀しみよ、さようなら。僕の元から、君は立ち去らなければいけない。また、何時か何処かで出会い直すだろう。時間は単線でなく円環、空間は果てしなく膨張する風船だ。次に出会った時は、僕はもう全然違う人間かもしれないね、記憶も曖昧で、思い出す力もないかも知れない。もう君とこれで別れてしまうのは、こちらとしても辛いんだ。しかし、センチメンツは文体を弛緩させる。簡潔こそ智慧の神髄、らしいので、言葉を選ぼうとすれば、自然、僕は自分の情感を、激情を、熱情を、棄てないといけない。滅私。これが僕の望むすべてで、あとはもう何も要らない。この修論も、だからこそ、後腐れなく終わりたいんだ。

 一体俺は何を書いているのか。もう時間がないんだ。時間がない。時間がない。僕の中では、既に失敗作だ。失敗作。でも出さないといけない。提出に意味がある。内容に価値はない。出すことに意義があり、出さないことには始まらない。

 嗚呼、O先生。僕はこれでいいんでしょうか。

 先生に頼る。親に頼る。友に頼る。挙句には機械に頼る。価値のない文章、意義のない論文、汚れちまった悲しみを歌ったのは誰でしたか。全然日本の詩人を知りませんが、汚れちまった悲しみに、という言葉だけ思い出します。

 

 中原中也の詩だそうです。以下引用します。

 

汚れちまった悲しみに 中原中也

 

汚れっちまった悲しみに
今日も小雪の降りかかる
汚れっちまった悲しみに
今日も風さえ吹きすぎる

汚れっちまった悲しみは
たとえば狐の革裘(かわごろも)
汚れっちまった悲しみは
小雪のかかってちぢこまる

汚れっちまった悲しみは
なにのぞむなくねがうなく
汚れっちまった悲しみは
倦怠(けだい)のうちに死を夢(ゆめ)む

汚れっちまった悲しみに
いたいたしくも怖気(おじけ)づき
汚れっちまった悲しみに
なすところもなく日は暮れる

 

中原中也・全詩アーカイブより引用。下線は引用者による。以下引用元URL。)

http://nakahara.air-nifty.com/blog/2012/03/post-be0f.html

 

 O先生、私はまだ真面目でしょうか。真面目過ぎると、人間何処かで無理が出ますね。無理は体を壊しますね。O先生、未だ僕は、あの頃のような真剣さを保てているでしょうか。僕は次に先生とお会いする時、しっかりと説明したいと思って居ます。包み隠さず。何があったのかを。先生はきっと、許してくれますね。僕は、もう、本当に駄目になってしまいそうです。

 何が私を歩ませているのか。何故にこの論文を提出するのか。O先生の為に、きっとO先生が喜んでくれる。両親が喜んでくれるように。N先生も、Iも、Kも、Sさんもきっと喜んでくれるに違いない。私は、喜ばせ役に回らねばならない。だからこれはお芝居なんだ。きっとそうだ。仮面舞踏会。演じることに喜びを見つける。それこそ、滅私に近づくんじゃないだろうか。私が求めていたのは、私を消すこと。存在感の無い人間に、誰でも接することが出来て、決して本当の自分の誰であるのかを悟られない、否、悟られたって構わない位、何もない人間になりたかった。そうだ。空気。空気、水、川、海。それなしでは誰しも生きられない。だが、それがあるうちは、その価値に誰も気が付かない。そういう人間になりたい。人間に。そうだ。この論文はちっとも世間の役に立たないからこそ、真に大切なんじゃないか。真に役立つ論文なんて、今の僕には最も必要のない論文だ。全く誰にも顧みられないような論文を真剣に書くからこそ、私に意味が宿るんじゃないか。空虚感が味わいのある悲哀に変化するんじゃないか。

 

 真剣に論文に取り組むことは、取りも直さず、私の空虚感を癒し、トラウマを克服させ、または、周囲の人間にこれ以上の迷惑を掛けずに済み、将来への展望を持つための見晴らしのいい高台に登れる、そんな契機だ。だから、もっともっと真剣になろう。こうやって、ブログに思いを残しながら、前に進もう。

 

 少し疲れた。横になりたい。

 

 自己否定感と自己肯定感は同じ所から生まれる。俺って馬鹿だな、でも仕方ないよね、っていう結論にどうしようもなく俗物である己を発見する。これはドストエフスキーが既に見つけていたことだ。彼はそれを「病気」と呼んでいた。

 

 だが、その瞬間でも彼は心のどこかで、こう何でもよいほうにとりたがる気持も、やはり一種の病気なのだと、かすかに感じていた。(『罪と罰(第一部)』工藤精一郎訳 p.17より)

 

 己の良心の示す道を歩けないこと、俗世を捨てきれない事、やるべきことをせずやるべきでないことをすること、俗物でもなく聖人でもない、この弱さは私の特徴だろうか。

 それでも自己否定を忘れるな。死を恐れよ。メメント・モリを合言葉にしろ。中島義道先生のモットーを覚えておけ。

 寂しさを安易な方法で掻き消そうとするな。哀しみを哀しみとして受け止められなくなると、安易な人間になるだけだ。安易なことはいつもお前を堕落させる。逃げ癖がつくと、暫くの間はそれが抜けない。止めることだ。自制心を発揮し、情報機器から手を離すことだ。節度が保てない内は、動かずに、じっと祈るのが一番の薬だ。

 二時間ばかり寝て、少し頭も落ち着いて来た。今度は少し歩いてみようかしら。

 一時間歩いてみた。天気もよく気持ちが落ち着いた。家に帰ったら少し疲れが出て、また横になった。

 30分先の未来を考えよう。考えるのは30分未満の未来と過去だけで必要十分だ。思い過ごし、期待過剰を防ぐのは時間感覚の調節だけだ。

 考え過ぎると疲れやすくなる。名越康文さんも言っていた通りだ。心の病の人の特徴は、アクセルとブレーキを同時に踏んでるみたいなんだ。「目の前のことに取り組む」ことに集中しなければならない。以前引用した箇所だが、もう一度思い出すために引用したい。

 

・・・僕たちは潜在的に、素直になって渾身の力で挑むことをすごく恐れるんですよ。・・・それはなぜかというと、まさにブレーキを踏みながらアクセルを入れることを、僕たちは「頑張る」ことだと思い込んでいるからかもしれないんです。(p.67-68.『心がフッと軽くなる「瞬間の心理学」』名越文康. 角川新書. 2010年.)

 

 心を車に喩えるのはとても有効だと思う。100%の力を出し切るのを怖がるのは、死の恐怖があるからだ。死の恐怖を乗り越えた先に、本当の幸福が訪れるとするならば、私も100%の力を出し切れるよう、なりふり構わずにやってみたらどうだろうか。無茶したら体は教えてくれる筈だ。体の声を信じて、ストレスを恐れず、失敗も恐れず、他人を恐れず、己も恐れず、誤解や誤読や誤記を恐れず、少々の不健康を恐れず、死を忘れて、提出することだけを目標に心を傾けようと思う。全速力でぶっ放す!

 そうか、頑張るとは、努力するとは、死の観念を頭から外すことだ。死を忘れよ。生を躍動させよう。なんだこんなことだったのか。死を忘れることが努力だったなんて。拍子抜けだが、しかし、この気づきは大切だ。我武者羅になること。これが出来たら、俺は自分に修了証を渡したいと思う。

 

 死を忘れるとは、時間感覚を狂わせることだ。最初に述べたように、一日を30分×32小節のラップ音楽として考える。翻訳とはビートを刻まないと行けない。振り返ってはいけない。運根鈍(幸運、根気、粘り強さ)とは翻訳家の為にあるモットーである。考え込まず、先に進み、後で訂正すればいい。上手く翻訳できるように幸運を願いつつ、根気と粘り強さで取り組み続けるだけである。

30分×32小節×21曲、そして永遠の眠り

 私は最早一日を24時間と考えること、修士論文提出日まで500時間を切っていることに耐えられない。だから、最後の時間感覚の調整として、一日を30分を1つの単位とした32章の断片集として編もうと決意した。つまり、一日を寝る時間と食べる時間と遊ぶ時間を差し引いた16時間(480分間)を、32小節として考えるのだ。

 一日を一曲として演奏しよう。

 この演奏の後、永遠に眠るように、床に就こう。何も悩むことのない赤子のように眠りにつこう。永遠の眠りを。