Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

私の努力論

・退行は恐らく最も醜い形態の自己表現の一つだ。

・嘗て私が信じていた「努力」とは、自惚れまたは盲目的愛に過ぎない。

・私にとっての「努力」とは、他者の技術を盗み模倣することに他ならない。

・模倣がすっかり体に馴染んでしまった時、私は新たな技術を盗む必要がある。

・具体的なノルマを課さない。罰則も用意しない。

・忍耐、根性、やる気、「石の上にも三年」などは全て名前に過ぎない。

・他人の期待に報いようとすればするほど、私は全く努力する気持ちが湧かない。

・それでも何かしらに捧げるとすれば、「私」という名前に対してである。

・まるで存在していない「私」という名前に対してなら、喜んで力を注ぎたい。

・斯様にして私は天の邪鬼な性格の持ち主である。ひねくれているのだ。

・「私は努力している」「為になることをしている」「この苦労は未来への投資だ」という損得勘定が、瞬間の充実感を削いで行く。

・完全に純粋な気持ちをもって事に当ることは、到底不可能であるのを知るべきだ。

・日本的風土に於ける「努力家」とは、聖人君子のことではなく、善き民衆の姿である。例えば野口英世二宮尊徳の様な、寸暇を惜しんで勉学に努める姿である。

・努力する姿は、人に感動を与えるが、努力する本人は左程その自覚がない。

・努力とは、高貴なる遊び、暇つぶし、多少の自己犠牲に他ならない。

・完全なる自己犠牲は、努力とは呼ばない。それは献身である。

・献身する姿は宗教的色彩を帯びる。努力は真似できるが、献身は真似できない。

・努力は、倫理学よりもむしろ美学の範疇である。

『孤独についてー生きるのが困難な人々へー』を読んで

 何度も読み直す本があることは幸福である。読み返すたびに感想が異なるのは、読者である私が変化している証左であるが、今日読んで見て気が付いたことは、私は自分の性格について大いなる誤解をしていたという嬉しい発見だった。

 私は、自分の性格を「直す」為に様々な本を読んで来たが、どれも結局の所、自己理解の本質にまでは至らなかった。そして、自分が一体何者であるのかを、読書という経験に照らし合わせて把握しようとする試みが功を奏しないことを、今日知ったのである。つまり、本当の私の在り様や性格や行動パターンについて完全に知っている人間は私を含めて誰一人地球上に存在しないという単純で冷酷な事実に思い至ったのである。先ず殆ど誰も私のことを知らないし、私について書いた文章を読んでもそれは一面的な理解に留まっている。私自身も、実は自分のことをよく知ってはいないのだ。

 私の敬愛する中島義道氏は、私とは全く異なる境遇を生き抜いてこられ、その境遇を呪うことなく、「とにかく一生懸命に努力」して、世間と折り合いを付けようと苦心された結果、積極的に孤独を選び取った。氏の言葉を借りれば、「マイナスのナルシス」である。

 

  こう決断した私は、自分が「ナルシス」であると思う。だが、ナルシスにはプラスのナルシスとマイナスのナルシスがいる。そして、私はマイナスのナルシスである。自分のことだけしか基本的に興味がない。関心が他人や世界に向かってゆかない。それは、水に映るわが身にうっとりしているからではなく、水に映る自分の姿を見て猛烈な嫌悪を感じているからだ。自分がなぜこれほどまでに問題児なのか、なぜこれほどまでに生きるのが下手なのか、それにこだわり続けるからだ。そして、それを後悔してもしかたないと悟るとき、こうした自分を受け入れるほかないと悟るとき、ある人はマイナスのナルシスになる。(p.159. 『孤独についてー生きるのが困難な人々へー』中島義道. 2008年. 文春文庫. 1998年に文春新書で刊行されたものの文庫版)

 

 こんな文章を読んでしまって、私は自分をすっかり「中島色」に染め上げて、一端の哲学者ぶったりしたのだった。自分の感化されやすく、流されやすい、付和雷同する感性が大きく作用した結果である。しかし、今日読んではっきりわかった。私は、中島氏の様な徹底した思考が苦手である、と。努力が苦手であり、努力が好きでなく、楽な生き方をついつい選んでしまうのだ。一生懸命に何事かに打ち込んで自らの計画に没頭することが出来ない。興味関心が移り変わってしまうのだ。ジッと一つのことを見つめて、何かが浮かび上がってくるまで待つことが出来ない性質なのだ。変幻自在の世界を前にして、狂喜乱舞してその変化に身体を任せたいのだ。欲求に忠実でな快楽主義者なのだ。そうした自分を認めてこなかったから、屈折した不自然な自己表現になってしまっていたのだ。そのことに気付いた。

 努力が嫌いなら、それを認めよう。計画倒れになるなら、それも認めよう。それが私であると、どれだけ不快でも了解しよう。恐らく、それが中島氏の解釈するニーチェの「運命愛」という態度なんだろうと思う。自分の弱みを、弱みのままに積極的に認めようとする心的な態度のことだ。それは誰か他人と比べて「個性」や「強み」を認めようとする相対主義とは異なる。中島氏の自己の固有性への眼差しは、いつでも冷徹で、冷酷だ。私は、中島氏でないから、同じ態度を持つ必要もない。不用意な義理は私を足止めする。私は、表層的な、滑らかな、撫でるような自己理解を求めたい。その方法論が私に合っている、それだけなのだ。

 私は、南木佳士氏が解説で警告しているような、「努力するのが下手な、ただの寂しがり屋の読者」(p.209)である。中島氏は孤独を選び取るべき人間を大変分かりやすい(そのために私は誤って自己判断を下してしまった)基準を示している。

 

  第一の条件は、あなたが他人とうまくやっていけないこと。他人の一人一人が嫌いなのではないが、他人と一緒にいても自由に心を開くことができず、楽しくない。そして、とにかくくたびれる。すぐに、独りになりたいと思ってしまう。そして第二の条件は、あなたが真に不幸であること(あったこと)。しかも、その不幸は社会を改良すればあるいは環境を変えれば解消してしまうようなたぐいの不幸ではなく、あなたのうちに深く巣くっているような不幸であること。あえて言いきってしまえば、「自分が嫌い」であるという不幸であること。(p.180-181)

 

 私には数人の信頼できる友人が居り、恩師と呼べる年長者が数人おり、家族愛も強固で、郷土愛と呼べるようなものも僅かにある。たしかに今患っている病は、言明し難い様々な生得的不幸や苦しみも幾分含まれているのだろうが、その殆どの原因は、大学院での孤独な生活環境と新しい職場での不適応だったのだ。現に、今両親とともに暮らし始めて半年以上が経つが、症状は格段に良くなってきている。決して、中島氏の提唱する「孤独の条件」を満たしているようには思われない。私は時として自己嫌悪に陥るが、短期間のうちに立ち直ってしまう。というのもこれまでの人生、私は、私という人間を盲目的に、大した理由もなく愛して来れたからである。この実績を認めることは、即ち、自分が孤独に相応しくない人間であることを認めるということだ。しかし、それでいいのだと思う。

 私は、今になって思うが、あの頃哲学者に成りたかったのだ。または文学者に、翻訳家に、仏教者に、ヒップホッパーに憧れていたのだ。憧れを憧れのままにしておく成熟した態度を身に付けていなかった。または、それに向けて己を動かし、着実な変化を求めて外に出ようとしなかった。その勇気がなかったし、面倒だったのだ。横着をしただけだった。だから、私はまさに「ウツになりたいという病」に罹患し、実際に、鬱的な生活態度を身に付けた結果、本当に鬱になってしまった。鬱になって良かったことは、哲学的素養や文学的センスが自然に身に付いてしまったことだ。翻訳の善し悪しが分かるようになり、ラップのフローを感じ取ることができるようになってしまった。というのも、鬱の時はあまりにも敏感に世界を感じ取ることができ、内省的になり、透徹した論理を好むようになるからだ。それは思いがけない収穫だった。

 でも、もういい。そろそろ本来の自分に戻ろう。あの、軽薄で、楽天的な、お調子者の自分に。私は残念ながらカインではないのだ。カイン的な人生の一端が分っただけである。この経験は忘れまい。だが、私はカインでない。そのことも忘れまい。

信頼と自惚れ

 バイトを1時間すっぽかした。寝過ごしたのだ。遂にやってしまった。こうなる事は予測できた事だ。毎日毎日、だらけて遊んで、時間や曜日やスケジュールの感覚が麻痺してきた所だったから。これは警告だ。身を引き締めよ、という警告である。それ以上に、恥を忍んでバイトに行かねばならない苦しみがある。塾長に会って詫びを入れねばならない。というのも、塾長は子どもと親に詫びを入れねばならないからだ。私の場合、会いたい人に会えない苦しみよりも、会いたくない人に会わねばならない苦しみの方が辛い。それほどまでに恥を掻くのが怖いのか。面子を保ちたいのか。

 電話口で小さな嘘をついてしまった。え、一時間後だと思ってました。あまりにも自然にスルスルと口から嘘が溢れた。今日まで私と彼女の間に確かに存在したと思われる信頼の糸が切れたように感じた。

 ああ、私はこれまで何度も同じ失敗を繰り返している。信頼の糸を切り続けている。パチン。ブチン。私は誠実になりたいとブログで言い続けていた。しかしそれは、満たされない欲望の裏返しで、全然私が誠実でないからこそなのだ。誠実とは何であるかの定義を求めているのは、そうでない自分の輪郭がはっきりするからだ。ああ、私は、誠実でないなあ。私は、なんで嘘をついてしまうのか。やっぱり自分の身が可愛いのだ。献身的な精神なんて、これっぽっちもないことがこれではっきりした。

 私は誠実を求めるが、それは私が誠実でないからである。すぐに嘘をつく。誤魔化す。逃げる。その一方、相手の嘘を見抜いては指摘し、誤魔化しを認めず、逃げようとする相手を引き止める。この私の心の不均衡な、不自然な認識を正すには、次の事をよくよく認識せねばならない。即ち、私は自分が一番可愛いと信じている、という醜い事実である。他の誰でもない私こそ世界で一番重要で愛されるべき人物であると信じている。私は自分が誠実であり、自己管理ができ、客観的に把握できると確信している。単語で纏めれば、自惚れ、ナルシシズムである。

 これが今日の失敗の本質である。自分が可愛いから、為すべきことをしないでもヘラヘラできるのだ。本当に誠実な人は、誤りを直ぐに正す。直ぐに謝り、服を着替えて現場に向かう。誠実な人は刻々と変化する現実に沿って自らの行いを正そうと努める。不貞腐れたり、呆然としたりしないのだ。現実的な視点へと、ライトのスイッチの様に即座に切り替えることが出来る。

 視点を切り替えよう。現実に向き合おう。誠実になるための努力を惜しむまい。

52/140:修論を殺れ!→落ち着こう

 殺るか、殺られるか。私の人生に於いてどうしても殺らねばならない事象があったとすれば、まさにこの三年前の修士論文であった。これは謂わばuncompleted missionなのである。その代償は本当に大きかった。今度このミッションを仮に達成したとしても、当初約束されていた報酬は殆どない。しかし、それを終えないうちは何事も始まらないのだ。逝きし日の私―修士課程の願書申込みの最終日にギリギリ間一髪間に合って薄氷を踏む思いをしたあの日。修士論文提出期限目前になって、N先生に提出できないことを伝え、大泣きし、焦燥しきったまま2月10日の正午を迎えたあの日の私。何度となく押し寄せた死の欲望と観念に取り憑かれ、身を任せようか否か、真っ黒い川が流れる橋の上で戸惑っていたあの日の私―過ぎ去った世界に生き続ける「私」達が、今日の私を鼓舞するのだ。今度は上手く殺りなよ、と。

 殺るべき事は唯一つ。修論である。優先順位の話ではない。唯一なのだから、優先順位もつけようがない。だから本当はこんなブログも、趣味の読書も、人格形成すらも関係ない。殺る気を起こす工夫は、しかしながら、必要だ。全身運動、論理訓練、集中と緩和。そうした練習を少しずつ積み重ねるのだ。今日はまずその練習から始めよう。

 今日が終わる。私は、もう十分に回復した。集中と緩和も上手く切り替えられる。文字を追い続けるのも苦でない。一日に数時間歩くこともできるし、食事の制限も管理できる。私は修論が殺れる程度に復活した。

 この修論とは一騎討ちなんだ。勝負なんだ。勝つか負けるか、二つに一つしかないのだ。負けないように力を溜めねばならない。

 

 

 母上からの助言を添えて置こう。私は小さい頃から何事にも嵌り易い性質に生まれているので酒や賭博にはよくよく気を付けないと行けない。ファッションにしろ音楽にしろ、お前は一度何かに嵌ると他の事に目が行かなくなってしまう。そうして、自分の首を絞めるような事になってしまうんだよ。今もまさにそうで、やらなくてもいい修論を何度もやって、わざわざ自分で自分の健康を害している。

 ああ俺は昔からそうなのか。今に始まったことではない。この「やめられないとまらない」状態になってしまう自分の性格を直さないと行けないのか。そうだったのか。やはり母は息子のことをよく分かっている。殊に性格や行動の傾向性に関していえば、俺よりも俺のことを熟知している。本当に有り難い助言だった。「修論を殺れ!」という極端なタイトルも、私の性格をよく表している。私は、昔から極端な性格で、且つ、嵌りやすく周囲に感化されやすい性質なのだ。嘗て私は友人やテレビや本や音楽や映画から大いに感化され、共感し、共振したものだった。今私を感化する物は言葉である。自己と言葉を無理矢理切り離すことで、自己の魂が言葉自体と鏡像関係を結び、言葉に映る自分の姿を眺めてはうっとりしているのだ。私の感受性は昔から変わらないのだ。生まれつき、自己内世界で遊ぶのが好きなのだろう。このような非生産的な遊びを止めたい。本業に落ち着いて取り組みたい。

 落ち着きが今は大切だ。落ち着こう。keep calmこそモットーにすべき時だ。

 

徒然なるままに、書く

 人格を高めることは私の趣味であり、課題であり、使命だ。その手段として、例えば読書があり、ドラム演奏があり、日々の家事や仕事があり、また会話がある。人格を高めるとは私の人格を改造することである。改築、改良、改装することだ。人格は一個の建造物であり、容易に破壊されては困るのだ。

 話していると自分でも思いもよらなかった言葉を吐くことがある。「今ここで、その人を許せなかったら、きっと死ぬときまで引き摺るだろう。泰平の気持ちで死にたいからこそ、過去は過ぎ去ったものとして、今此処で即座に清算したほうがいい。」自分で言いながら、自分に酔いしれる。書いてみると大したことを言ってないことに気が付く。物は考えよう、という事だ。

 ダンマパダは良い。落ち着く。聖書は固有名詞が多過ぎて、疲れている時期にはあまり読みたくない。物語は、やはり短編に限る。一本の長編小説を読むよりも、十本の短編小説を読みたい。更に疲れているときは、ことわざや四文字熟語を一つ知るのでもいい。最後は、漢字一文字だけでもいい。英単語一語でも。疲れた頭は物事の本質だけを求める。疲れを知らぬ元気な頭は言葉の装飾だけを求める。

 解釈学的循環の構造的欠陥の一つは、自家中毒症に罹患しやすいことだ。それを避けるためには、two turntables(2台のターンテーブル)が必要だ。私がhiphop/rap musicを一つの思想として買っているのはその点だ。懐古趣味から厭世観に陥ることなく、絶えずanother trackが伴奏されているのだ。相対主義に陥りそうになれば、MCになってイイタイコトを喋る。話す言葉が尽きたら、break danceを踊るため、フロアーに立つ。そうやって身体運動と精神運動が重なり合い、また離れ合って共存していく運動体としての文化なのだ。hiphopは構造そのもの、枠組みそのものであって、中身はお前が決めることだ。そこに自主性が伴って初めてstyleが決まるのだ。やはり、hiphopは最強の思考ツールだと思う。

 放埒さが認められる職業は物書きくらいである。物書きは放埒を職業的義務感を持って遂行せねばならない。私には物書きの暮らしが大変羨ましくもあるが、想像するやいなや、到底自分の身の丈に合わない感覚が押し寄せてくる。彼彼女の喋り方や身のこなし方、ボヘミアニズム、快楽主義、倶楽部制度、密閉感、俗物根性、粘着質、あとやはり金銭。そうした放埒と自由の履き違えに私は耐えられないかも知れない。そう思った。

 やはり私は幼いのだ。今此処の〈現在進行系〉的ではなく、人生を通じての〈現在完了進行形〉的な私という人間が、どの時代区分に於いても、どの局面に於いても、幼いのである。幼さの代償は放埒さである。幼さの報酬は純粋さである。幼さは責任の負担によって容易に失われる。責任ある人間は己の放埒な行為の芽を摘むために純粋な判断を退ける。または純粋な判断を退けるために放埒な行為を慎む。いずれにせよ、彼はそうして幼さを忌避することで、責任者としての職務を全うしようと努める。

 幼さは私の個性ではない。そんなものは克服せねばならない物だ。克服するとは、両面を同じにするという事だ。幼さを確固とした純粋理性、純粋感性、純粋知性に高める事だ。克己された幼さは、鍛えられ、洗練されて、立派な人格に成長するはずなのだ。植物の生長のような、幼さには内在する可能性が秘められているはずだ。その花を咲かすのか、枯れさせてしまうのかは、一重に育て方の問題である。しかし、私は、己が種であると同時に己の栽培者でもある。だから矛盾して当たり前なんだ。悩みの根源はこの自己矛盾なのだ。

 研究に邁進する為に、日雇い日払いの仕事をせねばならないのだ。最近はずっと金銭のことばかり考えている。両親に幾ら、国に幾ら、金を借りているのか。数えてみたら、正直に告白すれば、約320万円あるのだ。これは今の私からすればとんでもない額のように思える。これを完済しない内は、私は、少なくとも両親の立場に立てば、一人立ちした事にならないのだろう。返すアテは今の所日雇労働しかないのだ。畜生。悔しさだけが、今は救いである。この悔しさは、苦汁を嘗めた経験は、きっと役に立つ時が来ると信じてやるしかないのだ。私の場合、親の苦労とは借金のことだ。返済の為の人生を歩む、その辛さのことだ。平凡とはかけ離れたサバイバル感覚である。だから、私は、どうしょうもなく虚しくなるときは何時だって金銭のこと、主に借金が絡んでくるのだ。ああ、借金人生は嫌だなあ。

 論文も言うなれば借金だ。俺は毎日心の中で取立屋から逃げ続けているのだ。結果を出せ!席につけ!仕事しろ!論文を進めろ!毎朝毎晩、借金の催促の電話が鳴りっぱなしなのだ。ああ、俺はなんでこんなに弱ってしまったのか、ようやく分かった。追われる身だからだ。修論に追われているだけでない。健康に追われ、就職に追われ、結婚に追われ、奨学金返済に追われ、とっくに手放した車の支払いに追われ、県民税に追われ、社会保険に追われ、健康保険に追われている。では、私は一体何に向かって歩いたり走ったり休んだりしているのか。私の死だろうか?私の幸福だろうか?私の健康?わからない。追われているから走っているのか、闇雲に走っているだけだろうか。恐らくそうだろう。五里霧中に走っていたら、世間の方が私を追い越してしまったのだ。だから、今度は俺が世間を追っかける番なのだ。借金なんかに負けてたまるか。弱者の論理などに頼ってたまるか。何くそ根性も俗っぽいしダサいから嫌だ!もっと俺は超然と、安安と、ニッコリ笑って乗り越えてやる。そうだ、その意気だ。