Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

無性の悲しみの処し方

 無性に嬉しい日があれば、無性に悲しい日もある。今日は、後者だった。それは仕方のないことだと頭では分かっているつもりだが、どうも、遣り切れない。無性に苦しく、辛く、寂しい。なぜだろうか。だが、これを問い始めるのは悪魔の誘いに乗っかるようなものであるのを、経験上知っている。だから、私は、今日に限りこの問いを捨てる覚悟を持とうと思う。問うてはならぬ。問うと苦しみが増すからだ。苦しみとは、自暴自棄に陥ることであり、疑心暗鬼に苛まれることであり、嫉妬や恨み辛みを論うことだ。問うてはならぬ。問いを捨てよ。

 問いを捨てると、問いに誑かされる心配がなくなる。確かに、問いとは私を高め、強め、大きくしてくれるかも知れない。だが、それは心と体の用意が出来た時にするべきである。今日の様な苦しみが増している時に、苦行として自問自答することは、あまり効果がない。敢えて根源的な問いを捨てることは、長い目で見れば、問いを深めるのに役立つ。

 無性の悲しみ。それは問いに向き合わないようにするための、体と心からのメッセージである。問いを捨てることは、目の前の仕事に集中することである。そうだ。目の前の生徒に向かい合うことだ。

物思う日々

 束縛と解放の関係は責任と自由の関係と同じであるか、少なくとも類似している。

 自分の判断規準に則って物事を選択することの大切さは、仏教者でも、キリスト者でも、神道者でも、全く同一である。即ち、求道者とは自己の格率を外部に依拠しないのである。法に則る時に、その法とは自己の内部で了解されている法である。

 「頑張りズム」とはプロテスタンティズムを基調とした資本主義のことであるが、それに気が付いたのはマックス・ウェーバーであった。

 過ちとは、全て過去に過ぎ去ってしまった一切の行いであるから、個人史を超えて、他者の失敗、または家の失敗、組織の失敗、集団の失敗、政府の失敗、国家間の失敗、極大すれば人類史から、その構造と因果関係を知り、活かすことが出来るのである。二万年の人類史について遡ることは、今この瞬間の私という個人の思想なり、常識なり、認識の機能にも、大きく働きかけることが出来る。その働きの媒介は言語である。

 翻訳本の有り難さはここにある。または母語習得の大切さもここに在る。

 所謂「メンタルが強い」とは、状況適応能力の高さのことだろうか。パラダイム・シフトや価値観の転倒が起きたときに、冷静に状況を見つめ直し、アナロジー(類推)によって事象を把握しようと努め、なんとかして自分と自分の周囲の人々が生き残るための対策を立ち上げることである。端的に言えば、生きている、目の前に座っている、あやふやな他者に依拠せずとも、心の中の法だけで満足する人間である。

 竹のような人間になりたい。天に向かって真っ直ぐであり、弾性があり、根がしっかりと張っており、その根はリゾーム型であり、竹林と己が一体となっており、雨風に強く、更に加工もしやすい。素晴らしい素材である。

祖母の名言。本は難しいのがいい。目的地には遠回りがいい。至言である。

運命というものは確かに存在する。どんな両親の元に生まれ育ち、どんな地域に暮らし、どんな学校を選び、どんな先生や友人を持ち、どんな社会即ち会社を選び、どんな同僚と仕事をするのかというのも、全ては運任せである。縁故である。それを祝ったり呪ったりするのは、人間の性である。

 これまでの全ては縁故であるが、これからの全ては私の掌の中にある。それは希望である。

 直観か推論か。このような二項対立ではなく、アウフヘーベンでもない、文脈主義とは甘えであろうか?無矛盾な認識の有り様とは、寧ろ、非人間的なのではないのかとも思うが、どうだろうか。

未決定な自己をそのままにすべきかどうか、それが問題だ。

 「なぜこれをするのか」という根本的疑義について、当面の間はこう答えよう。「お前がこれをする為の根本的・本質的・使命的意義とは以下の三つである。一つに独立した人間になる為であり、二つに両親を看取る為であり、三つに私塾を立ち上げて東北地方の地域社会に貢献する為である」

 本に書き加えるよりノートテイクすべきである。読書人とはノートテイカーのことである。というのも、書き加えてしまったら、人日本をあげるとき消すのが面倒だから。

美しいものの愛で方

 美しいものや美しい人を傍から観るとき、私は、どうしても自分の容姿の醜さ、性根の不潔さ、嫉妬心などと照らし合わせて観てしまう。そのように照合している間は、どんなに美しいものも、段々と不潔な雰囲気が漂ってくるような気がする。結局同じ人間なんだから、あいつも俺も同じ人間なんだから、同じ様に汚いもんだ、などというような非難めいた考えが浮かんで来る。

 そこで方法を考えた。明瞭に観ようとすればするほど、相手の美しさが事細かに分かってくると同時に、その美しさの要素は、私個人の中に求められない要素である、と。脳は見たいものしか見ない、とも言う。見たいものとは、欲しいもの、足りないもの、求めているものである。隣の芝生は青く見える、とは脳機能的に正しいのだろう。

 今、喫茶店の中で本を読む私の目の前に、美しいカップルがいる。男の方は長身の痩せ型、小顔で、髪は黒く艶があり、毛先は少しカールしていている。前髪が長く、鼻の下まで伸びていて、目線がはっきりせず、その分艶っぽい。白いウールのセーターの下に深緑のシャツを着ていて、同じくウール製の薄茶色のスラックスを履いていて、灰色の靴下が裾から見えている。黒い革靴はよく磨かれていて、黒い髪とよく似合う。彼女の方は、パッと見ただけでドギマギするような美人である。彼氏と同じく、長身の小顔で、手足が長く、先端に行くにつれて細く、長く、靭やかに伸びている。右手の中指と人差し指の間には火の点いた煙草が挟まれている。焦げ茶色のショートヘアで、空色のセーターと、黒いストレッチパンツが踝まで包んでいる。足元はランニング用のナイキのスニーカーで、足の形によくフィットしているようだ。きっと普段からウォーキングやフィットネスに精を出しているんだろう。スポーティな健康的な美しさと指に挟まれた煙草の絶妙な調和が、彼女の天使のような顔に魅惑的な印象を与えている。

 私は思う。美しいものは遠目から見たほうが良い。眼鏡を外して見たほうが良い。これ以上近くで見たら、美しさが溢れてしまう。美しいものもいつかは滅ぶ。その事を思えば、あまり接近しすぎても、愛別離苦の苦しみを味わうことになる。

 まだまだ私は美しさからの適切な距離を掴めずにいる。外見と中身。魂の善さと美しさ。生活様式の穏やかさ。女神信仰。官能的な美と信仰の美。あれもこれも、とは行かないのだ。私は、何よりも、欲張りすぎる自分を少し見つめ直さねばならない。