Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

本日の気付き

感謝されることに戦慄を覚える。それは、自己肯定感が低い為でもあろうが、私が余りにも真面目過ぎているからだろう。私としては当たり前の事を当たり前の様に、求められたままにやっただけであるのに、他人から感謝されるとは何事だろうと、身体が違和感を覚えているのだろうか。

 

真面目過ぎる人に成りたくない、というのもそれは残念な事に、不真面目過ぎる人間と同様またはそれ以上に、相手にとって煩わしい、迷惑で、鬱陶しい、邪魔な存在であるかもしれないからだ。

 

度が過ぎるとバランスを失い、崩れ、倒れる。それは私の知っている唯一の普遍化された法則かもしれない。

 

やはり、深夜の間食が止められず、止まらない。何故だろうか。一人部屋に籠もっているからだろう。何をする訳でもなく、何か生産的な事をしないといけないと思いつつ、結果的に淫らな事をして心を乱したり、低俗な文化に浸ったりしているだけだ。夜は生産的でなくてもいいが、かといって本能に従っているだけでは詰らない。コントロールが難しいが、やはり、豊かな眠りに導くように段階を踏むような用意を、夕方になる前にしておかねばならない。つまり、夜に脳を活性化しないように、昼間の内に体と心と魂に適度な疲れとストレスを与えておかねばならない。それが健康な眠りの第一段階だろう。

私の集中法、つまり治療法

腹式呼吸を意識する

制限時間を設ける

裸足で地面を掴む 

体幹を意識する

顎を引く

目線をやや下にする

射抜くように観る

心の中で念じて見る

自分を俯瞰しようと試みる

時空を忘れる

誰かに成り切る、演じる、共感する

節度を保ち、礼節を守る

無際限に赦し、無条件に愛そうと努める(或る場面、或る文脈、或る状況に於いてのみ)

 

なんで僕は産まれたのか、私は死んだら何処に行くのかと自らに問いたくて仕方なくなる時がある。あの自問自答の時間にだけ遣って来る純粋な無感動(apathy)と焦燥(fret)によって、日々の思索と労働が妨げらることが殆ど無くなった暁には、私の病は完全に私の管理下に置かれたことになるだろう。

 

生きているとは自殺願望との絶え間ない闘争状態に他ならない。この葛藤、内紛、テロリズムを制した先にあるものは、老衰という名の崇高なる自然死であろうか。または殉死という名誉の死であるか。それを知るには私はあまりにも幼く、それについて疑念を抱くようになったのは余りにも遅過ぎた。

29歳:自殺するにうってつけの年頃

 そわそわする。始終落ち着かない。バイトの時間を気にしている。体重計に乗っている。煙草をふかしている。珈琲を淹れている。古本屋に寄っている。友人から結婚式の招待状が届く。別の友人から赤ちゃんが産まれたと聞く。東京で活躍する友だちの話を聞いて、嫉妬と羨望と焦燥と茫然と尊敬と希望のミックスした感情を抱く。下らないツイートとブログと投稿をして、友人からイイねと言われて、ホッとする。今日着る服を迷う。来月のクレジットカード決済を心配する。痩せないことを諦めかける。部屋を掃除する。散歩に出かける。バイトの仕事を覚える。修論から逃げる。先生に謝罪のメールを書く。母に英語の発音のレッスンをする。父が怒っている。父が疲れている。父と話せていない。弟は元気そうだ。祖母と源氏物語の話をする。A県から級友が遣って来る。地元の友達と飲み会を開く。皆仕事に精を出している。または家庭を築いている。インスタグラムで温かい、ユーモラスで、都会的で、アットホームな写真を見ては、嫉妬する。その嫉妬を持ち越して、このブログに遣って来ては、評論めいたことを書いてお茶を濁す。下らないと思う。シニタイお化けが遣って来る。お呪いを唱える。

 

諸行無常諸法無我一切皆苦涅槃寂静

ただ、一切は過ぎて行きます。(「人間失格」)

サヨナラダケガジンセイダ。(井伏鱒二

 

 生きる事は辛いという事だ。苦しみに満ちているという事だ。辛いなら辛いで構わない。苦しみを最後の一滴迄味わうのが人間ライフの醍醐味だ。困難だ。孤独だ。絶望だ。完全に絶望することもできない、この中途半端な生を過ごすくらいならいっその事一思いに飛び降りてしまいたい。こんな中途半端な気持ちを懐き続けている己の未練がましさを許せるかどうかだ。適当な仕事を妥協できるかどうかだ。手を抜いたり、知らん振りしたり、仕方ないと言って苦々しく笑ったり、自棄になることも出来ず、有耶無耶にしたまま持ち越したり、他人に丸投げしたり、白眼視されても仕事に行ったり、税金を払ったり、疲れているのにお年寄りに席を譲ったり、譲っても座ってくれなくて立往生したり、意味もなく知らない駅で降りて見たり、下らない映画で泣いてみたり、鏡に映った男を訝し気に眺めて見たり、醜い腹や腕や尻を大事に擦ったり撫でてみたり、自分で自分を褒めて見たり、精神安定剤を飲み忘れたり、拒否されたり、殴られたり、蹴られたり、貶されたり、軽蔑されたり、馬鹿にされたり、怒鳴られたり、無視されたり、嫌味を言われたり、ああ、もうお前等全員殺す!と思ったり、でも、結局何もできず、言い返す言葉も無く、独りで泣いてみたり。この半端な思い、不完全で不規則で未解決な生活を、私は最期まで、自殺しないままに生き続けることが出来るのであろうか。

 

 29歳。自殺するにうってつけの年頃だ。

 

 ところで、私は自殺したくない。だから、自殺に至らない遊び方を覚えないといけない。恋がしたい。勉強がしたい。山登りに行きたい。ライブに生きたい。ドラムを買いたい。車が欲しい。欲望を制御したい。私は、私を支えてくれる人が欲しい。私だけを観てくれる人が。私だけを愛してくれる人が。私は、私が私であるというただそれだけの理由で、私だけを特別な仕方で愛してくれる他者が欲しい。これこそ、紛れもない私の真実の告白だ。

 

 何もかも 私の手から 離れ行く

 

 私は、そうとうに乙女チックに出来ていることが、文章を書くことによって分かる。そして、私はこのような欲情が相当に年齢不相応であることも理解している。社会的通念と照合しても、私は、恋愛市場に於いて不適格な性質を有しているのだと思わざるを得ない。私は、自分自身の劣性を排そうと努めたいと思う。誰にとっても乙女チックであることが劣性なのではない。29歳の私にとって、乙女チックに出来ていることが、私にとって不満の種であるのだ。不快の原因なのだ。怒りの源泉になっているのだ。虚妄を産み出す観念の集合体になっている。だからこそ、切り捨てなければならない。これは、個性というものではない。これは固定観念に過ぎない。そして、一切の固定観念は打破されるべきであるのだ。一切の固定した情感を空に帰する。それが29歳の目的だ。