Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

ポジティブ・シンキングの思想

 最近の自分はいくらでも言葉が滝のように流れ出るようだ。いくらでも言葉が吐き出せる。それくらい頭の中に言葉が渦巻いて、行く末をしらないまま、回転していたんだろうと思う。言葉は水である。言葉は自然である。循環するものだ。私の言葉もやはり循環させないと具合が悪いようである。河口に留まり濁ったまま、腐って悪臭を放ちだす前に、放出せねばなるまい。どんどんと。言葉の神様がいるようである。私はこうして言葉に身を預けながら、言葉を羽に擬えて、どこまでも高く高く自分の位置を忘れて飛び去って行くのを想像する。私の言葉は果たして信頼に足りるだろうか。誠実さを失ってはいないだろうか。暮らしとは言葉である。暮らしは濁っていないといえるだろうか。会話とは言葉であるが、私の暮らしにかけているのは、まさに会話ではなかろうか。

 ポジティブ・シンキングなる思想があると聞く。なんでも、現象を起こるべくして起こったものとして把握し、過ぎ去ったものを材料として捉え、将来を楽観するようだ。主義は嫌いだ。言葉を軽視するからである。言葉に色を付けるからである。ネガティブ・シンキングも、だから、同様に嫌いである。やはり物事の負の側面のみを強調し、全体のトーンを落とすからである。では私はどうすればいいんだろうか。何を根拠に生きていけばいいんだろうか。

 言葉は道具でもある。だから、必要があれば、道具は代えていいはずだ。思想は言葉であるが、それは言葉の神殿に近い。ローマの神殿を建立した大工たちはどんな道具を持ち、交換しながら、創作に励んだんだろうか。勿論彼らは多種多様な建築道具を持ち、適時に適当な道具を駆使していたんだろうと推測する。だからこそ、言葉も使い方が問題になってくる。使うべき時にその言葉を使わないといけない。今の私には、ポジティブ・シンキングは、私の思想建築に必要だ。だからこそ、取り組んで努力して使わなければならない。なぜなら、今の私の思想は崩れかかっているから。土台ばかり気にして、図面を書いては破り捨てて、施工に着手できていないからである。ポジティブ・シンキングはまさに、K氏の生き方そのものである。試行錯誤法といってよい。過剰な自信家K氏、独立独歩の彼の生き方は、まさに彼の前向きで着実な思考法によるものだ。土台を気にせず、どんどんと自分の計画を果敢に実行する。勇気のある男である。もし私に彼のような勇猛果敢な実行力が備われば、鬼に金棒であろう。私は、また彼の持っていない、誠実さや、冷静さ、古典主義、教養主義、滅私の気持ち、共感的姿勢、俗にいうやさしさ、を持っている。縁の下の力を買って出るところがある。従者のような素朴さと実直さがある。なにより、自分が罪人である強烈な劣等感が絶えずある。自己憐憫が過ぎたために、歪な形の自己尊厳が生まれている。この捻くれ曲がった弱者感覚、不貞腐れを矯正するには、K氏のようなポジティブ・シンキング法が最も好ましい。

 

追記

恥ずかしげもなく、自分はやさしいとか、誠実だ、とか書いている。馬鹿馬鹿しい。なぜなら絶対嘘だからだ。そんな人間は、この世に存在しない。真に親切な人間が小説的な存在であるように、私も、自分の内部で、自己を保つためにそのように上手に解釈しているだけだ。あくまでも、相対的に言って、私の経験に照らし合わせて、他人よりも、人にやさしい言葉や行為を少しだけ積極的に選んだだけであって、真にそうであるとは結論できるはずもない。しかしながら、である。そうやって結論付けない限りにおいて、私も新たな一歩が踏み出せない。私は正しかった。そして間違った。だから進歩があるんじゃなかろうか。