Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

プロレスラー水道橋博士vsラッパー太田光

 まず始めに私が断っておきたいのは、当事者同士の争いに首を突っ込んでああだこうだ言うのは卑しい行いだということです。私がもし両者のどちらかの立場だったらと想像すると、よく知りもしない部外者に自分の発言や行いを分析されたり、不本意に解釈されたりするのは気持ちのいいものじゃないからです。第三者目線で事の顛末を見守るしかないのですが、それでもやはり、私は水道橋博士さんも太田光さんもどちらも大好きな芸人さんですので、両者の間に起こっている闘争関係をできるだけ正しく理解したい。そうせずにはいられない。お二人に直に会ったことも話したこともないのにも関わらず、それでも尚、こういう解決策があるんじゃないだろうかと提案したい。

 だからこれは一介のテレビ視聴者、ラジオファンとしての提案に過ぎません。ですが、この文章が本人に読まれることがあるという前提で書きます。なぜならその可能性もwebに残るのなら0ではないはずだからです。ブログに言葉を残したり、SNSで意見を発信するときに私が思うのは、この文章が一体誰に読まれるのだろうかという不安と仮にもし当事者に読まれた場合にも私の言葉や論理の組み立てに説得する力があるだろうかという疑念です。毎回そこまで真剣に考えているわけではないですが、タイトルに個人名を書いたり、それが検索ワードに引っ掛かりやすいことがわかれば、やはりそうした気持ちで書きたいと思います。

 つまり私が提案したいのは、お二人がもし健全な議論をされるのなら、ラジオやTwitterや事務所同士の私信ではなく、是非直接会って、観客たちの前の舞台でやってほしいということです。舞台空間という最も民主的で自由な表現の場所がせっかくあるんですから、そこで堂々と勝負してほしい。直接身体で表現された言葉を武器にして、お互いの顔や身体の反応を見ながら、戦ってほしい。テレビ番組やラジオ番組の競演が難しいなら、タイタンシネマライブのように、戦いの模様をネット配信で同時中継することもできます。いずれにせよ、現在のような一方は公共放送でもう一方はSNSを使うような、表現媒体の異なるコミュニケーションでは、観客不在の果し合いになってしまう、まさに不毛な議論になるんじゃないでしょうか。

 博士はプロレス的で太田さんはラッパー的だと感じています。プロレス的というのはつまり、肉弾戦に於いて本気と遊びの境界線を行ったり来たりすることで、ラッパー的というのはつまり、言葉の表現に於いて悪意と誹謗中傷を尊重すると同時に、語り手の人格を認め合うということです。共通しているのは、そこに絶えず闘争的な本能が活動していて、争いを好み、悪意を好み、諍いも貶し合いも好み、徹底して人間関係を断ち切らない信念があるということだろうと思います。決して相手を捕えて離すまいとする人間同士の強い絆があって初めて、肉体表現でも言語表現でも、その誠実さが保たれるんだろうと思います。

 二人に必要なのは、プロレスリングであり、フリースタイル・ダンジョンであり、劇場なんだろうと感じます。もっと言えば、観客です。オーディエンスの直接選挙的な支持があって初めて、両者の表現の優劣が決定されるべきだろうと信じています。観客席はラジオ投稿の葉書の上でも、リツートでも、動画投稿のコメント欄でも、どこぞの誰かが立てた掲示板の上でもないはずです。カトリック信者の洗礼に於いて、信者の信仰を無から有に転じるために必要なのは、その場に出席した証言者の眼と声であるのと同様です。独白ではまだ足りない。そこに他者が介在して初めて、表現の真善美は保たれる。なんだか話が壮大になりましたので、そろそろ終わります。今後の動向に注目したいと思います。

 そういえば亡くなった立川談志さんは、NHKの爆笑オンエアーバトルのシステムを絶賛されていました。上映権をすべて観客に譲渡する画期的なアイディアから、ラーメンズ東京03のような素晴らしいコント職人が生まれたのだとすれば、やはり、今回の一件に関しても、オーディエンスの介在を通すことで、昇華された芸術表現になるんじゃないだろうかと思います。