Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

恋愛論と時間論

 まさか自分が恋愛について書くなんて思ってなかった。その資格がないと決めつけていた、というのはある種の逃げの口実で、実は怖かったのだ。恋愛について語るときの人間に(特に血の気の多い野郎共)表情に、なにかとても厭らしいものを読み取ってしまうからである。オレはこんなにオンナにモテた。こんなに男女の間柄について、性交渉について、口説き文句について、肌を重ねる快楽について実地体験してきた。そういう話は、生理的に嫌いである。虚栄心と嫉妬心が混じり合って、いつしかthe upper hand(上手、上の立場)を取ろうとする競争になることも稀ではない。互いの仲を維持するには、あまり込み入った恋愛沙汰に分け入らないのが無難だ。君子危うきに近寄らず、とも云うではないか。

 それでも今日はなにか恋愛論について語りたくなった。スタンダールの『恋愛論』を目下通読中であるのも、こうした気運にさせた付随的要因だろう。なにより、今、恋愛しているという状況が根本要因なのだが。

 凡そ最後に味わった親密感情や恋愛感情は、半年以上も前である。特定の女性に対して好意を寄せるのに何も異常なことはないのだが、そのときの自分の心理状態が幾分異常であったため、結局上手く折り合いがつかずその人とは疎遠になってしまった。不安定な時期に恋愛などするもんじゃない。そう思った。

 恋愛するとき、わたしはよくその人のことを心に思い浮かべようとする。写真もよく見返すし、どんな会話をしたのか確認するためチャットを何度も読み返す。見落としがあるかもしれない、自分がキャッチできていない彼女の心理が在るかもしれないと思って、会話を眺める。そうした努力は、しかしながらあまり交際関係にまで発展するための礎にはならないことが多い。余りに多く思い慕うと、面白いことだが、いざ実際に会って話したり食事をしたりする時になったら、もうすっかり幻滅してしまうのだ。つまり、目の前にいて話してるその人が、すっかり色褪せて、食事も全然喉を通らず、味もよく分からず、何を話したかも全然覚えてなく、ただ親しげな雰囲気だけを残して、恰好だけはつけなければと、半ば強迫的に(懐はいつもさみしかったが)、その食事を割り勘にせず、そして(さみしくなった財布だけを供に)一人帰路につき、次に二度三度会うことはあっても、それ以上重ねても幻滅が増すばかりなのだ。そして、またこれも面白いことに、疎遠になってしまった後に、あの人奇麗だったなとか、いい人だったのに惜しいことをしたと心中呟いて、ムフフと微笑を浮かべながら、一人夜のベランダで煙草をくぐらせたりするのである。

 こういう気持ちは、小学校のときの運動会や家族でのキャンプの思い出に近いのかもしれない。行く前はすごい楽しみで、色々と楽しい計画を立てて、想像力を膨らませ、いざ行ってみる段階になると、些細なハプニングやいざこざが起こり、その瞬間にすっかり幻滅してしまう。でも思い出すときにはそうしたハプニングこそ、旅の一番の思い出になっていたりするのだ。過去と未来は面白い。現在だけがつまらない。なぜ現在はつまらないのか。現在 だけ 面白かったらいいのに!

 時間論と書いたのもそういうニュアンスである。例えば、過去も未来も全然どこにも存在しないものとする。現在とは、私 だけが 居ない場所で(私の知覚の外で)、猛烈な速度で過ぎ去っていく光の矢の様な瞬間の束である。そのように仮定してみると、先程の旅の話も自然に納得できた。つまり、理想化(旅の前)、幻滅(旅の最中)、美化(旅の後)の段階的な精神の変化が、この猛烈な速度をもった光の束の中で行われているのだ、と。またそのいずれの過程に通じるのは、自己愛の精神である、と。要するに、過去もなく未来もなく、現在すら置いてけぼりになっている「私」を仮定すれば、絶えず自己愛まみれの理想化や美化 だけ が愉しく、自己の存在しない現在 だけ は愉しくないので幻滅するというわけである。「私」が行く旅行なんだから楽しいに決まっている(理想化)、なんで計画通りに行かないの?「私」が悪いんじゃない。ああもう来るんじゃなかった(幻滅)、色々あったけれど楽しかったねえ。やっぱり「私」って旅行の天才!(美化、もしくは馬鹿)。こうして、絶えずこの「私」の自己愛は満たされているのである。

 そして、自己愛にまみれているのに気づかない間は、恋愛は決して成就しない。自己愛から解放され、客観的に自己を把握し、目線が他者(相手、パートナー、彼氏彼女)に移ったとき、初めて恋愛が始まったと言える。自己愛から解放されるとは、すなわち今この瞬間に激流のように流れている時間の滝に身を置くことである。相手の目線で相手を見つめようとするとは、即ち自己犠牲である。冬風の中に立って、ひたすら相手の眼を持たんとした自己犠牲の上に成り立つ恋愛には、幻滅など存在しない。あるのは穏やかな小川のせせらぎと心地よい春の風である。

 恋愛論というだけあって、偉そうにまとめてみた。この論が正当性を持っているかどうかは、読者諸賢の判断にお任せする。