Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

希望について(西村賢太『課外授業ようこそ先輩』鑑賞記)

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 これは素晴らしい番組だった。西村賢太と小学6年生。遥か昔に、もはや希望など信じない、希望など糞喰らえと決め、社会に呪詛を吐き続けてきた無頼漢が、夢や希望だけしか持っていない(勿論、各々、不安や悩みを日々抱えて生きていることが後々判明するのだが)子どもたちの前に立つ。自己紹介のシーンでまず感じたのは、彼の真実(つまり作家として幾度も語りつづけ、書きつづけてきた彼の持っている人間性や個人史、つまり厭らしさ、弱さ、狡さ、暴力性、犯罪歴、血縁を断った過去などの諸々)を普段のように堂々と語ることが出来ず、「酒浸りで太っている」というくらいのダメさ加減しか披露できなかった、もどかしそうな西村氏の表情である。または、NHKの教育番組という冒すことの出来ない不文律からか、話し方がどこかちぐはぐなのや、小学生の幼気な視線が集まるのに戸惑いを隠しきれないのや、まるで嘗ての幼かった自己と久しぶりに対峙したかのように、普段会っている大人たちには決して見せないであろう、柔和で穏やかなそして真剣な顔が垣間見えた。番組の最後、西村氏が子どもたちとともに作り上げた文集『青き愚者の記録』を開陳し、その素晴らしい装丁と出来上がりに一緒に驚きつつ、共に晴れやかに笑っているのをみて、私は不覚にも泣きそうになった。また、自分の頭の中に、一つのideaが到来してきた。

 

  ああ、子どもとは希望にちがいない、

 

私の中で何かが弾けるようだった。一度は決別したはずの、希望などというそんな甘っちょろい言葉。思想ともいえない思想、馬鹿の自惚れ、希望とはそういった類の空想観念に過ぎない。しかし、本当に希望とは存在する現象なのかもしれないと思わせてくれたのは、私小説家としての西村賢太と、私小説という手法を持った子どもたちとの共同作業だった。

 

 教育とは、子どもの希望を失わせずに、立派な人間に育てあげるための手助けのことである。大人になっても尚、固く希望を保持し続けてきた強い人間だけが、子どもたちに希望について語ることが許される。自らの過去を受け入れ、それを人格形成に役立てる技術の水準にまで高め、遂に子どもの前に立つための用意が私の中に出来たという確信こそ、彼が現実に教育者の資格があるという条件と同値の関係であるのだ。教育界から去った今だからかもしれない、こんな軽はずみなことを言えるのは。でも、これでいいのかもしれない。私にはこの道しか歩めなかったのだから。

 

 嘗てわたしにとっての希望とは、硬直し、凝り固まったイデオロギーや思想であった。または、経験に打ち負かされた末に選ばざるを得なかった、世間から押し付けられた緊迫感であった。または、藁をもすがる気持ちで掴んだ、怪しげな宗教的自然的な神や仏に向かう、世俗的で大衆的な祈りの姿勢や祈りの言葉だった。またそれらのいずれかの順列、組み合わせであった。しかし今はっきりと分る。希望とはそういった観念や情感や行為などでは決してなく、もっと現実味を持った、存在そのものである。

 

 希望とは子どものことである。子どもに関わるすべてが希望である。希望とは子どもの存在と同値である。学校という空間では、希望そのものが生きて、歩いて、話して、食べて、笑っているのだ。希望が二本足で歩いている。希望が口を使って話している。希望が五本の指を使って書いている。鋭敏な眼を持ち、思った通り感じたまま話す口を持ち、嘘と真を正確に聞き分ける耳を持っている。全身を使って気持ちを表し、わがままで、頑固な時もあれば、驚くほど素直に受け入れる瞬間もあり、最後にはユーモアの精神を決して忘れない。子どもの存在する空間と時間には、絶えず希望が満ち溢れる。子どもとはこんなに素晴らしい存在であったのか!

 

 またこうも言えよう。私たちもかつて希望であったのだ。母の希望の子であって、父の希望の星であって、祖父母の希望の種であったのだ。または彼、彼女の生まれ育った村や町の希望であって、ひいては地域、国、時代の希望であったのだ。子供時代がある者は全て希望の時代があった。全く誰からも望まれない子供はいない。天皇陛下ローマ教皇が自国の繁栄ばかりでなく、全世界の子どもたちに祈りを捧げていらっしゃるのがその証である。これは観念でも、情念でも、行為でもない。歴然とした事実である。このことを普段の生活でいかに忘れないように、かすかでもいい、頭の隅に残しているようにするかということこそ、問題の前提条件にすべきだ。つまりこれは毎日の心がけ、技術の問題であるはずだ。

 

 そう、わたしも嘗て希望であった。それは自己存在が罪でなかった時代があったこと、つまり存在そのものが真に素晴らしく、また深淵で、喜びに溢れた存在であった証である。自己に固有の純粋な魂があった証である。このことだけは忘れてはいけないと思う。

 

 今日発見したことを理解するヒントになるかもしれない本を二冊紹介して今日は終わりにしたい。一冊目は、エーリッヒ・フロムの『The Art of Loving』(原題:『愛の技術』、鈴木昌訳:『愛するということ』)愛を観念でなく技術の一つとして考え、どのように日々の実践に活かすかを、平明な文体で著した、フロムの代表作の一つ。愛される技術ではなく、いかに愛するか、みたいな話で、最初は戸惑ったが、今なら受容できるかもしれない。二冊目は、西村賢太編、藤澤清造著『藤澤清造短篇集』番組ではその場面をカットされていたが、西村氏がいかにして清造の文章に惚れ込んだかを、編者あとがきで詳らかに記していたのを覚えている。今日は西村氏の文章が読みたい。

 

 最後に、ナレーションの吹石一恵さんの声が素晴らしかった。引用したい言葉も多く見つかった。そのうちの一つ。「読むことでも、書くことでも救われる。私小説にはそんな力がある」その通りだと思った。