Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

誕生日に考えたこと

 私は最近ずっと眠いのであり、覚醒しているのかまだ夢の中なのか分からないこともあり、記憶と忘却がごちゃ混ぜになってしまっていて、こうしてブログを書いている時ですら、もしかしたらまだ夢の中かもしれないという一抹の不安というか狂気というか、遊びを楽しんでいる。要は健康的でない証である。食べる欲求は旺盛で、性的な関心も無い訳ではないが、この眠りたいという欲求だけは一日中心の何処かで感じ続けている。なぜこんなにも眠いのか。いや、なぜ皆さんはそんなに元気なのか。寝たくないのだろうか。寝なくても平気なのだろうか。それとも他の人たちは僕だけが知らない方法で毎晩ぐっすりと眠って完全に充電しているのだろうか。はたまた、僕の睡眠の質が悪いからなのだろうか。睡眠の質とはどうやって測るのだろうか。α波とβ波という言葉や、ノンレム催眠という現象なら聞いたことがある。90分の定期的な波長がいいとも聞いたことがある。記憶を司る海馬の働きが最も活発になるのが睡眠の時らしいが、私の海馬は起きている時も活発に動いているように思う。なぜなら、起きている時でも遠い昔の記憶がめくるめく甦っては、現在の私を束縛しようとするからだ。わたしは、記憶の呪縛から逃れるために、意図的な忘却や消去をするために眠りたいのに、海馬は思うように動いてくれない。これはどういうことだ。分からない。

 眠い毎日をずうっと過ごしていると、だんだんと、こちらの生活の方が普通になってくる。もはや眠いのが当たり前であり、頭がはっきりしないのが当たり前であり、身体が思うように動かせないのが当たり前である。不明瞭な頭と不自由な身体と不安定な魂の行き着く先は、日常的な倦怠感である。厭世観に溺れているのだ。例えるなら、僕は今一人で裸のまま海の底に向かって歩いていって、ある程度の深みまで到達し、爪先立ちになって鼻腔だけ水面に出して、浮かんでいるのか立っているのか沈んでいるのか分からないのである。人は、それは君、溺れているんだよ、早く岸に戻りなさいと言うだろう。しかし本人は、これでもなんとか立って息をしているからこのままでも大丈夫だと言って聞かないのだ。僕が今一番欲しいのは頑丈な浮き輪である。それか、僕の身体ごと一気に浅瀬まで引き戻してくれる大波である。いずれにしても、この状態をあと数分間でも持続することは出来そうにない。なぜなら僕は、今のこの緊張感にすらだんだんと慣れてきてしまって、遂に後戻りできない位の深みまで歩もうとしているからだ。それが分るのだ。これは今危険だよと、本当に親身になって訴えてくれる人物なり、事物なり、事象なり、出来事なり、現象なり、なんでもいい、早く助けて欲しいのである。今すぐに。

 自分からSOS信号を発する力を、私は、「生きる力」と定義したい。「生きる力」とは文科省の定義するところでは、発信力をもった確固たる学力であったり、他者と協和しながら社会に参画するソフト・スキルであったり、健康的な身体そのものを指したりするのだが、私にとって最も説得力とリアリティのある定義は即ち、SOS信号を発する力である。苦しい、タスケテ、力を貸してくれ、援助してほしい、こういった言葉を発することがどれほど困難を極めるだろうか、健常者の皆さんには分からないだろうが、これは自らに殆ど社会的な死の宣告を下すに等しい、恥辱と罪責感情と虚無感にまみれた、血みどろの宣誓書なのであって、つまり、世間に向かって「生かして欲しい」と訴えることは、日本に於いて最も難しい懇願なのである。加護者に駆け込んで訴えるなど、日本に限らずアメリカでも西欧諸国でもアジア諸国でも世界中どこでも、最も自尊心を深く傷つける事であるに違いない。しかしながら本当は、この行為は最も勇気の要る事なのだ。最も英雄的な行いを果たすものが社会の中で最も疎まれる存在であるというのは、歴史的な事実である。英雄は常に誤解される。誤解されなければ英雄にはなれない。英雄と誤解の相互関係は同値であると私は信じている。(日記に過ぎないので誤解されても一向にかまわないのだが、一応付け足すと、私は英雄的な最期を遂げるための自殺を否定しているわけでは全然ない。先ずもって自殺とは思考の自殺であり、思考を完全に失った人間の最後の手段としての自殺は、肯定も否定もされない、本人の選ぶことのできる唯一の選択であるのだから、そこに積極的にせよ消極的にせよ、医療従事者や司法が関与するのは致し方ないと思う。ここまで極限的な状況を考えるのは極端かとお思いだろう。是非、『カッコーの巣の上で』や『ジョニーは戦場へ行った』や『生きものの記録』といった映画をご覧になっていただきたい。)

 私は厭世観を嫌う。だが今の自分が厭世観で一杯であることも認める。だから私は私自身のことが大嫌いなのである。これはとても自然な帰結である。最も忌避する感情の存在を仮定して、その仮定した感情に自らが支配され振り回されていることを知ったとき、己自身を呪うに至ったという訳だ。

 今日は僕の誕生日だ。そう。もう27年も生きたのである。今日で生まれてきてから28年目である。早くこんな青臭い、アホ臭い議論を止めて、建設的な話題について物を書きたいものである。孔子も、三十にして立つと仰られた。自立まで残すところあと二年である。この730日で何を考え、どの様にして石を動かすのか、目下思案中である。