Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。Peace.

勉強人間をやめたい

 勉強とは難しい本を紐解いていくことを指すだけではなく、当然のことながら、あらゆる場面を想定することが出来る。本を作る印刷所でも、本を書くライターでも、それを編集し校閲する出版会社でも、勉強は行われている。勉強は本に限らない。音楽もまた勉強である。作曲する人、歌詞を書く人、それを歌う人、曲と歌詞を纏める人、それをプレスして発売する人、それを聞いて研究する人。映画でも規模は違うが、構造は同じである。脚本を書く人、シナリオを修正する人、配役を決める人、振り付けを作る人、それらを纏める人、配給会社を見つける人、監督、助監督、カメラマン、演者、音響、機械の故障を直す人、身の回りの世話をするスタッフ、そして公開日に見に来る観客、その観客を世話するスタッフ、映写機を回す人、映画館のスタッフ、映画館を建設する人、などなどである。映画のエンドロールが長いのは、それだけ作品に関わる人間が多い証である。みんな勉強しているからこそ、いい作品ができるに違いない。

 私の関心の領域の狭さが、図らずも露呈してしまった。本、音楽、映画の3つの業界くらいにしか私の関心が及んでいないのである。勿論、この3つの業界と言っても、その業種は多岐に渡る。本と一口に言っても、パンフレットからハードカバーまで、音楽と言ってもBGMからオーケストラまで、映画と言っても15秒のCMから3時間以上の幻想映画まで、ジャンルや分野に区切れば区切るほど、細胞分裂の如く無限に増殖する。自分が一個の細胞だとすれば、この無限に増殖した空き部屋のどれを選べば最適化されるか、考えるだけで気が遠くなる。

 勉強は疲れるが、疲れていれば即ち勉強している、とは限らない。勉強という行為は疲れている状態の必要条件であるが、十分条件ではない。勉強していなくても、疲れることがあるからである。これは体験的に分かる事である。今日は新しいことを一つも学ばなかったなあと己の振る舞いを呪ったところで、夜になれば欠伸が出て身体がふにゃけて次第に眠くなる。翌朝になれば腹も減る。勉強しようがすまいが腹は減る。何もしなくても一日は過ぎる。

 勉強は疲れるが、勉強した結果、その疲れすらも吹っ飛ぶくらい嬉しくなったり他人から喜ばれたりすることもある。一度この妙味を知るとそこからなかなか抜け出せない。いつしか、自分を褒めたり、他人から褒められるためだけに勉強するようになってしまう。

 勉強の本分とは、自己満足でも他者からの承認をもらうためでもない。勉強の本分など、そもそも存在しない。(この種の問いを問い続けるのは、時間は存在するのか、他者とは存在するのかという遠大な疑問について、参考文献を調べないままに自問自答するのと同じくらい滑稽な姿である。)勉強とは行為そのものである。疲れるためには勉強すればいい。疲れたくなければ勉強しなければいい。しかし、勉強しようがしまいが、人間は疲れるようにできている。暇を持て余した人間は、どうせ疲れるなら勉強した方が得だと分かって勉強に励むようになったのだろう。勉強すればするほど、生活は豊かになり、自分も満足し、他人からも褒められる。それに勉強しないまま一日を終えるよりも、何か新しいことを学んだあとに寝る方が身体にもいいことが分って、なお一層勉強するようになった。その結果が今日の私である。いや、昨日までの私である。今日からの私はもうこんなバカな間違いに気づいたので、勉強など止めることができるはずだ。

 勉強はもう止める。勉強人間を止める。勉強ではない。家事でも、仕事でも、研究でも、翻訳でもない。無論、銭稼ぎでもない。名付けなどどうでもいいではないか。もっと建設的な実りのある、誠実さを持った生活をしたい。損得勘定とか、自意識とか、承認欲求など、もう必要ない。少なくとも今はもう必要ない。もっと誠実な力強い生活を求めたい。