Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

未だ見ぬ友人である日本のこども達へ

 朝9時、何事かと思って飛び起きた。外の工事の爆音が部屋に侵入してきた。母親が玄関の扉を半開きのままにして家を出たためであろう。無性に腹が立った。兎に角、この平穏な部屋の雰囲気をぶち壊されたことに対して抗議しなければ!それと同時に、こんな些細な事で自分の空間とはいとも容易く破壊せしめられるのかと、空しくなった。玄関を出て踊り場から階下を眺めてみる。家のすぐそばに隣接する小学校の通学路で行われていたのは、コンクリート製の防護壁の破壊作業だった。ああ、そうか、あの事件かと思った。最近大阪府で起こった痛ましい事件の教訓を活かしているのか、すぐに分かった。そうして、反省した。自分の身勝手さと、こどもの命について考えてみた。

 人命の尊さは昨今過剰なまでに持ち上げられている感がどうしてもある。保守と名付けられている一群の論者らはこの傾向を好まないようだ。生命至上主義の行き過ぎによる弊害の方が明らかに大きいということを理由に、人間はいつか死ぬ空しい存在であることをもっと日々の生活の中で自覚せよと警戒を鳴らしている。教育業界ですら、重大ないじめ問題については「ゼロ・トレランス」(加害者児童・生徒に対して情け容赦しない懲罰を与える姿勢を見せる方針)を掲げており、嘗ての「こども=世の宝」という構図は崩れ去ったように思う。参政権成人年齢の引き下げや14歳以上の青少年の犯罪の厳罰化傾向など、昨今、「こども」という範疇も曖昧至極である。幼児、児童、青少年、14歳未満、中学生、14歳以上、中卒、高校生、18歳以下、大学生、専門学校生、見習い、予備校生、高卒、大学中退、家事手伝い、二十歳未満などの社会学的な範疇から、片親か否か、母親との関係が良好か否か、少年院経験の有無、精神疾患の有無、ひきこもり経験の有無、いじめ経験の有無といったプライバシーに踏み込んだ範疇まで多岐に渡る。これではどこまでが「こども」でどこからが「大人」なのかは殆ど明確な基準を持たないだろう。こども「らしい」振る舞いや見た目、話し方、人付き合いの仕方、家族との関わり、一般社会での扱われ方について、誰も明快に語ることが出来なくなった。精神年齢などという不明瞭極まりない概念も出てきた。発達障害自閉症スペクトラム、先天的な精神障害を患っているこどもに対する扱いも、範疇が細分化しているだけで、根本的な社会的地位は確立されているとは言えない。メディアは批判される実存であるのは承知だが、それにしても、精神疾患患者に対しては相変わらず、劣った人間としてしか扱わない。「感動ポルノ」という消費の対象でしかない。なぜわたしがここまで怒りを感じているか。完全に言明することは不可能だ。ただ、こどもが蔑ろにされている直観があるから、としか言いようがない。

 こどもは蔑ろにされている。こどもは、しかし、大人に対して何も言えない。こどもたちは四肢を切り落とされ、口を封じられ、両目両耳には固く蓋がされている。これは比喩ではなく真実である。彼ら彼女らが持ちうる最高の武器は何かといえば、もはや、残骸になった屍の様な生命だけである。こどもはもはや命と同義語になってしまった。こどもの命だけが尊いのであって、こどもの人権や人格は勿論のこと、こどもの訴えや嘆きや日々感じているであろう異常な緊迫感、束縛感、不安、痛みはほとんどの場合救われることはない。その事を重々承知しているからこそ、こどもはもはや大人に期待しない。社会に期待しないからこどもだけの純粋培養のような空間を作る。それがLINEグループなのか、所属する部活動の部室なのか、通っている学習塾なのか、ヤンキーの族なのか、ギャルのギルドなのか、ゲーミング世界のコミュニティなのかは各人各様だろう。しかし構造は同じである。大人はもはや立ち入ることの出来ない独自の空間がたしかにあるのだ。こどもは普段の大人社会に疲れ果てて、こどもの世界に一時避難する。その中で起こる「内ゲバ」的なるものがLINEいじめだったり、部室内の暴行だったり、陰湿な血の制裁なのかもしれない。

 こう書いていると、今日本に住んでいるこどもは本当に可哀そうに思えてくる。わたしは情を入れ過ぎているだろうか。夜回り先生でお馴染みの水谷修氏のような、日本中のこどもの命を守ることを天命として日夜働く草の根活動家に変身したいという高邁な意志は今のところない。立派な大人も現にいるのだと感心するばかりである。立派な大人は確かに居る。優しい大人も居る。性根の腐ったような人間も居ることは居るが、数の上では圧倒的に少ない。日本人の気質の良さは国際的な指標に照らし合わせても高いとメディアはよく騒いでいるが、確かに肯ける部分もある。しかし、それは大人になった後の日本人を見ているのであって、日本人のこどもの幸福度は必ずしも国際的な規準に沿っている訳では無い。自己肯定感の低さ、被虐待経験の有無、いじめに巻き込まれた頻度、核家族率、地元住民との関わり、将来に対する期待感などと個別に統計をとってみれば自ずと分かってくるのは、現在のこども達がいかに戦々恐々とした世界に住んでいるかという現実の恐怖感である。

 最近の子どもは全然子どもらしくないと馬鹿な大人は嘆く。全くお門違いも甚だしい。子どもを性的な対象として拷問にかけているのは誰か。子どもを一群の弱い消費者として扱っているのは誰か。子どもを一人前の犯罪者として扱おうとしているのは誰か。すべて一群の大人たちである。全ての大人、とは言いたくない。水谷氏のような立派な大人も居る。嘗て日本には立派な大人が多くいた時代もあった。こどもが幻滅せずに大人になれるとすれば、嘗ての立派な大人に、どんな形でもいいから出会う体験をすることだろうと思う。今の大人を見て、大人とはなんたるかを判断するのは善くないことを教えなければいけない。私の様な弱い人間でも社会の中で堂々と生きていけることを示すべきだ。こども「である」事自体に価値を求めようとするのではなく、これから社会にともに関わっていく「まだ見ぬ友人」位の目線が、日本の大人たちに必要ではないのだろうか。