Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

中庸な意見はディベートから産まれる?

  意見の究極的な真理は中庸であると孔子先生は仰られたそうな。意見を作るには主に三つある。議論と独断とディベートである。

  現実世界で行われている議論とはまず第一に男同士の馴れ合いであって、程度の低い知的な遊びである。かといって、真剣に話し合えばそれだけ両者の溝は深まるばかりである。誰だって、議論して良かったなあとしみじみ感慨に浸ることは少ないだろう。第一に、議論を経た結果に己の考えを改めようとする道徳心の強い、妥協を許さない誠実な人間など現実世界に殆ど居ないではないか。世間話や昔話や草野球の方がよっぽど健全な知識階級の遊びである。

  世に蔓延る独断家は他者の言葉や歴史についてあれこれ参考も参照も批判もせず、己の経験と記憶と直観だけしか価値の存在を認めない。信じているのは行為と結果だけなので、参考したり参照したり批判する対象も嘗ての己だけである。自己言及と自己分析と自己批判の無限循環から外に出ようとしない独断家は、時代錯誤という病を患っている憐れな存在であるが、その迷惑は甚だしい。

  偉そうに書いているこの私は、この議論家と独断家の両方の素質の持ち主である。これはリップ・サービスではなく真実である。私は雄弁に議論することも、黙して独断することもできる。無論、議論で何かを得たり、独断して結果的に功を奏した事も無い訳では無い。しかし、何か新しい言語ゲームを見つけないと、同じ轍を踏むような気がして居るだけだ。

  それでは、議論を避け、独断を排し、中庸の意見を持つにはどうすればいいのか。目下思案中であるが、一つの案は、ディベートというロール・プレイング・ゲームである。絶対的に賛成(若しくは反対)意見について、自分の気分や判断などを度外視した上で反対(若しくは賛成)の立場を採らねばならない。これは相当高度な言語ゲームであると思う。他人の意見を、他人の立場になって、本来の自分と同じ立場の人間に対して理論的に反論するのだ。この越境体験は実に凄まじい。反射的な生理的不快を乗り越えないと行けないからだ。その苦労の先にあるのは、一つに高度の客観的視座と論理的な構想力、二つに理解不可能な他者に対して出来る限りの思い遣ろうとする尊重の態度である。ゲーム感覚が鋭く養われている現在の日本人には、ディベート訓練が、論理的思考法や他者への配慮を身に付けることができる一番手っ取り早い方法ではなかろうか。