Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』や五木寛之の『生きるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はただの文学好きの好事家。Peace.

在野の学徒に成るための心得

  何々学とか何々理論とか何々仮説というのは、それだけで独立して存在するのではなく、類似する他の学問なり体系なりに組み込まれているのであって、この還元作用はどんな学説に対しても強制されるべきものだ。換言すれば、地球上で生まれたどんな人間に対しても、この二万年の人類史の中に確実に位置付けられるということであり、もっと言えば、学説の父権的なヒエラルキーについては一定の敬意だけを払えば十分だという認識を持ちたいのだ。

 「上見て暮らすな、下見て暮らせ」という暗黙の了解は、学問世界に於いても散見される。私は在野であり続けたい。学問だけでは喰っていけないからである。だからこそ己の卑屈な態度を、学問する瞬間だけ一時的に外してみたいのだ。上も見ず、下も見ず、そもそも目が眩んでいることをハッキリと自覚したいのだ。ほんとうは何も見えていないことを生理的な水準まで降りて、サルトルの吐き気のように、もしくは煙草を吸いすぎたときの眩暈のように、恐怖や感動で鳥肌が立つような、快不快を越えた完全に明確な認識、つまり唯識を求めたい。それはつまり意志と行為による非日常的な認識の仕方である。これを「直観」と言うのだろう。禅僧のように三昧の境地に達し、翻訳家の如く言語と戯れ、宇宙飛行士のように自由闊達で在りたい。

  なぜこの三種類の職業が並列されるのか。前回の投稿を参照すれば、彼ら彼女らは自らの死について深く考えて居るからである。彼ら彼女らのスタンスは「滅私」という仏教用語に近い。その真意を敢えて一言で表せば、禅僧も宇宙飛行士も翻訳家も全員努力家であるが、しかしその努力という行為の無限循環からの脱出が遂に出来ないことを心底諦めているのである。最終的な努力の報いを一切求めていないのであり、だからこそ、彼ら彼女らの言葉には聖なる輝きが宿るのだ。

  繰り返しになるが、私のような在野の学徒に必要なスタンスは、行為と直観の結び付きを求めんとする態度と姿勢である。日中は汗水垂らして一生懸命働き、学問の事は考えないように努める。帰宅してシャワーを浴び、ご飯を頂き、段々と頭も体も柔らかくなって初めて在野の学徒に生まれ変わる。限られた時間と空間を研究に費やすのだ。精神の分裂と統合の無限循環である。そうやって魂を鍛えていくのだ。しかしながら、こうした三昧の境地に至る生活を送る上での留意点は、時の為政者や宗教家、更には国家的なテロリスト集団に己の魂が悪用され弄ばれる事があるという歴史的な事実である。オウム事件の全面的な解決が不可能であるのは、人間は魂すらも大量生産・大量消費してしまうという恐怖体験が記憶から決して拭い去れないからである。ドイツ人がナチズムを忘れないように、日本人もオウムを忘れては行けない。

  ところで、善の研究を体系化した西田幾多郎博士は、禅寺に通って座禅を組むのを習慣にしていたようである。京都という土地柄もあったのだろう、西田博士は座禅や散歩を通して無の思想という独自の哲学を開拓したと聞く。西田博士の研究姿勢は、内田樹氏や斎藤孝氏の提唱するところの身体論の体現であるのだろうか。何れにせよ、死の観念を忘れないように真剣勝負の気持ちで取り組むことに変わりはない。