Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

禅僧・宇宙飛行士・文学者

 絶え間く湧き出る無限の泉があって、目に前には透き通った清らかな水がある。私はこの水の美しさに心を魅了され、水の構造を知りたいと思う。その泉から掬い上げた水は、私の掌の中で既に目には見えないが水蒸気となって離散してしまう。私はそれでもこの水の存在を確かめようと口の中に含もうとするが、私の口の中には既に唾液や前日に飲んだ水の粒が残っているため、私の口は絶えず湿っており完全に渇き切ることがない。ではこの水を乾いた紙の上に垂らしてみて、水の構造を確かめようとする。紙の繊維の中を縦横無尽に水の粒子が走る。その素早さに私の眼はついて行けない。余りにも同時に現象が起きているために、どこに目を遣っていいのか分からない。細部を捉えればよいのか、全体に目を走らせればよいのか。否、何が重要で何が重要でないかの判断が無知の私にはできないことがその最たる理由である。

 では私の生体の不完全性を補うために道具を用いればよいだろうか。しかしこれもまた否である。私の貧弱な想像力から生まれたいかなる道具は、私の想定する機能を上回る事はあり得ない。私の不自由な身体を以て通ることの出来ない針の穴も、私の紡いだ糸であれば通る可能性がある。しかし、この糸の運行は私の指先の細やかな神経細胞に依存しており、糸が自分の意志を持って針の穴を通るわけではない。つまり道具を用いても尚、私は私の身体に依存せざるを得ない。私は水の構造を知るために道具を作ろうと苦心するが、糸とその運用の関係と同じく、遂に私は自分の身体から抜け出ることが出来ない。私は私の魂だけをこの清らかな水の中に注入したいのだが、私の魂の入った水は最早私の望んだ美しさを奪われてしまっている。

 対象を測る時に不可知論より前提を始めるというのは、測定者が持ち得る最も誠実な態度であるだろう。これは自然科学に限った話ではなく、社会科学も、人文学にも全く同様に当てはまる。書き手の眼差しや気分や態度や思考の経路を知りたいにも関わらず、私が参照できるのは己の直観や経験や記憶だけである。これでは永遠に書き手の意図を把握することが出来ない。なぜなら私が私であり、彼(彼女)でないからである。しかも私の対象とする書き手はもうこの世に居ない。だから私が彼(彼女)の意図を確認するための手段はこの世の中に存在しない。膨大な証拠や書誌や手紙、日記、家族や親しい友人からのインタビューを持ち出したところで、当人の反駁可能性が永遠に失われてしまっている時点で、完全なる把握は成立し得ない。

 最善の文学研究があるとすれば、空しい行為の積み重ねの果てにある希望的観測である。だから文学者は、ビッグバンを証明する宇宙理論学者にも似ているし、時間の存在を確かめようとする実存哲学者にも似ている。三者に共通するのは、自分の死を絶えず想定している点だ。もっと言えば、自分が産まれてしまったがために、この世の中の把握が遂に不可能になってしまった「事実」を永遠嘆き続けている点だ。私の存在が対象に影響を与えてしまっていることを悔いる人間は、おそらく仏教的な因果を想定している筈である。前世や来世を信じるという意味でなく、私が産まれる以前の世界と、私が死んだ後の世界とが、どのような関係性を結んでいるのか(または結んでいないのか)について、文学者も宇宙理論学者も実存哲学者も自問自答している筈である。この種の精神の持ち主が純粋であるとか極端であるとか評されるのは、彼(彼女)が己の精神の既にこの世に存在しないことを真に望んでいるからであろう。

 つまり純粋に死にたい(実存的に消えたい、ブラックホールの中に入りたい、言語世界で生きたい)人間の行き着く先は、禅寺かNASAか出版社のいずれかである。暮す場所としては、己の心の中、宇宙空間、紙の上である。職業としては、禅僧、宇宙飛行士、文学者となる。私はこの三つの内のどれになろうか。目下思案中である。