Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

解釈学的循環と中観仏教

  解釈学的循環とは、発見の喜びが一瞬で立ち消え、発見した要素の還元、定式化が実は不完全であることの自覚を促し、理解における不完全性の定理の逆証明である。

  つまり、「なるほど分かった!(嬉)」とは「全然分からない!(怒)」ということであり、「もつ分からないよ(哀)」とは「もう分かったよ(楽)」ということである。ここでは、真の認識であるという確信の直観と、やはり空洞であるはずだという義偽の直観が同時に起こっているのだ。義偽を確信し、確信を義偽するのである。これを行為的な直観と言うのだ。強いて言えば解釈学的循環という発想は、不完全である己をより高度に認識することに役立つと言える。
  この循環のなかでは、対象の空洞化と自己の空洞化が同時に進行するため、実存(可能性のある人間)と漠然とした不安(死ぬ存在としての人間)が交代して立ち現れ、この生と死のリズムは、本当に脳細胞が完全に機能停止に陥って思考が出来なくなるまでは逃れられないだろう。自己が無限に後退していけば行くほど対象と自己の魂の間の距離が増大し、全体の見取り図ができても細部の完全なる把握は出来ず、完全なる認識は不可能になる。しかし、細部を求めて対象に無限に接近しても、自己から魂が抜き出て対象に侵入することは無く、たとえ魂の侵入が可能になったとしても、自己の魂が侵入すること自体による状況の対象の質的変化によって、やはり完全なる細部の認識は不可能である。

  つまりこの命題は、「自己と対象の間にいかなる極限状態を想定しても、真の認識は得られない」と仮に表すことができる。この命題の対偶は、「空を認識するためには、自己と対象の間の任意の点において留まり続けるだけで十分である」ということになる。これが真ならば先程の命題も真である筈である。つまり、自己と対象の間の適当な場所を見つけて、極端な接近や後退を排除して、決まった同じ姿勢を取り続けるだけでよいのだ。そうすれば可能性として空を悟り、対象の真の悟りが開けるかもしれない。禅僧、文学者、宇宙飛行士の暮らしが、もしこのような前提でデザインされているのならば、私のこれまでの議論にも有効性があった証拠になる。

  もっと言おう!全ての文章には(嘘)が接尾辞のように不可逆的にくっついているのである。(嘘) 真の真なる言葉も私の目からみれば嘘になってしまうかもしれないのだ。(嘘)しかしながらこれでは、嘘の嘘は真という三段論法があるのにも関わらず絶えず嘘になってしまう。(嘘)論理を越えた認識があるのか?(嘘)

  要は、真の決心など出来ないという事で、何時でも何処でも真の決心ができると言うことだ。決心する前の己について、決心した後の己はもう完全には理解できないのだ。決心した後の自分は別人に生まれ変わっているとも言えるし、絶えず自己の有り様は不安定であり生まれ変わりなど起こり得ないとも言える。

  たとえば将棋で歩が成金になる。金としての機能を持った歩は、金としての扱いを受ける。しかし、死んだ後はまた歩としての扱いに戻る。それはどの駒についても当てはまる。しかし、どちらかの王が死んだ後は、勝利した王も敗北した王も、両者の全ての持ち駒は二度と生き返ることがない。否!全ての駒は元々生きていなかったのであり、それは全てプレイヤーのルールのもとで決められた振りをしていただけに過ぎない。もっと言えば将棋盤も駒もプレイヤーも、元々宇宙の何処を探しても存在していなかったのだ。だから成金は始めから生きてもないし、苦しんでもないし、老いて成金になってもいないし、死んでもいないのである。こうした無限の否定を繰り返していくと、四苦八苦から逃れることができる。

  色即是空の悟りの果てに何があるのか。果てしない修行である。その修行の果てには何度目かの悟りである。このリズムこそ解釈学的循環であり、このループから抜け出すこと、即ち涅槃の境地に至ったのが仏陀であった。ループからの解脱の先にあったのは何だったのか?解脱もまた存在せず空に過ぎないという、更に高次の色即是空である。色即是空という最上の高みに至ったのと同時に、色即是空すらも屋上屋を重ねるがごとき無駄であったことを知るのである。これが空即是色である。色即是空空即是色の無限循環の後に、一切即是空という究極的な認識が漸く立ち現れるのである。