Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

アナロジー的論文作成(18/7/18)

 捨てよう。目の前の一冊の本を捨てよう。本の住人たちがどんなに立派で徳の備えた人間であっても、私は私以外の何者でもないのだから。私の苦しみと彼らの教えとの間の関係性は、疑いなく絶対的な距離を保って永遠に隔たっているために、認識の共有・相対化・受容の弁証法的三段活用が現実に不可能である。つまり私はまず死の恐怖に於ける不確定性定理 の肯定的態度の選択が強制されているのだ。私は己の死の恐怖を把握することが出来ない。詰まるところ私に出来ることは限られている。人類が始まって以来100億人以上の人間が産まれ死んだそうであるが、100億人の生と死はどれ一つとっても絶対的な差異を永遠に保っているのであって、翻って、私だけに課せられたこの尊い生命と死にして私だけ の所有する義務と権利 が同時に付与された身体と精神を持って、絶えず良心と反抗心を抱きつつ、認識の相対的な解釈を自己の内部で執り行い、直観によって魂が翻弄し時に奔走するのを意識の統合によって制御することしか出来ない。

 更に捨てよう。目の前の千冊の蔵書を、そっくりそのまま今この瞬間に、後ろ髪を引かれることなく、灯篭流しのように弔いの念すら持たずに、ただ捨てよう。無限に増殖するウイルスのごとき知恵の泉は、私の生死に関わらず枯れることはない。私が居ても居なくてもこの泉の涌き出る石清水の美しさや静けさ、深遠さの前には、一個の人間の努力など無為であり、極限すれば無そのものである。頭の中でなら自分が仏陀にも、キリストにも、孔子にすらも成りきることが出来るが、己の尊大さまでは疑いきることは出来まい。神や仏を語る時に、私は否応なく信仰心を専売特許として扱っている。ここでは、神聖な空そのものである筈の教祖たちを、世俗の現存在にまで貶めようとしている。自分がどこまでも敬虔な心的態度を選んでいる意識を持ったとしても、逆に全く世俗にまみれることを好として神の存在証明を対偶から導こうとしても、何れにしても完全に徹底することが出来ないという動かしがたい事実によって、一切即是空を遂に体得することは、現世で生きている限り不可能である。つまりこれは不可知論 の肯定である。こうした頭でっかちな尊大さと自己愛こそ絶え間ない苦しみの源泉なのだから、たとえば己の蔵書だけを豊かにしよう、己の体だけを健やかにしよう、己の精神だけを強靭にしようとするエゴイズムを今この瞬間に止めなければ行けない。

 本を捨て、己を捨て、黙って静かに世界を見よう。この世が全て夢幻に過ぎず、白昼夢に見るあの幻想世界ですらもまた別の色に過ぎないということを、即ち色即是空であるための必要十分条件は空即是色であるということを、もっと根本から自覚したい。自覚したところで、しかしながら、自己内対話は絶えることがない。この声の持ち主である良心や反抗心は絶え間なく心の内側を支配している。良心は生育と、反抗心は信仰心と深く関わり合っている。この二つを暴走させておく場所が無意識のあり、即ち意識の決して及ばない広大な深淵である。この深みに潜り続ける勇敢なるダイバー(潜水士)であるところの宗教家や文学者や宇宙飛行士は、己の無力さを絶え間なく痛感しているからこそ全力で対象にぶつかって行けるのである。つまりここでは、諦めきれないことを諦めた人間のみ達せられるある種の規準の創出である。死の恐怖とそれに怯える自己との間に横たわる標準偏差 の確立である。人間はこの世の中に於て、決して諦観に達せないということを実感する。つまり自分の存在と時間の関係に不均衡さや偏りや歪みがあるという事である。この不純物を完全に取り除く方に傾くのではなく、経験を悲喜劇として解釈し物語化させ、語りの体験にすり替えることで、現状に対する肯定的態度を積極的にせよ消極的にせよ、自らの意思で選ぶことが可能となる。その選択が積み重ねった結果初めて、現在の生活に対する落ち着きが出来上がり、落ち着きの暮らしが豊かな生活に変化し、遂に臨終の際に於て、死後の未来の不安に対する覚悟と勇気が論理的帰結として立ち現れて来るのである。

  翻って私個人の生命と死は、果たしてその様な強靭さを目指して造られているのか。父の尊大な性格、母の事なかれ主義的諦め、祖父母の強烈な劣等感情や仏心、曾祖父の天皇崇拝、名前しか知らない祖先たちの農家の暮しに息づいていたであろう民俗学的信仰心、そういった歴史的な連綿の中に自己を位置づけた時に自然に気づくことは、彼らの苦しみは私の苦しみであるという事だ。それならば生まれつき虚弱体質に悩んでいる事も、埋めようのない欠陥に苦しむのも、トラウマ体験によって行為に大幅な制限が課されている事についてすらも、歴史的な位置づけ が可能なのではないのか。では私は前世のカルマを継承する者であると仮定すれば、私の苦しみは無くなるのか。直観的に、否、と言わざるを得ない。それは宗教の歴史がそのまま戦争の歴史であることを知識として把握しているからである。宗教改革や派閥争い、最終戦争、選民思想、異端への迫害といった、血生臭い単語が宗教にはどうしてもへばり付いている。人を殺してまで救われたいとは思えない。その点、わたしの行動規準は儒教思想 の影響が色濃く残っている。中庸を重んじ誠実で真面目で穏やかな生き方に憧れる気持ちの裏側に、私だけが永遠に救われるべきであるという猛烈なるエゴイズムが顔をちらつかせる。これでは殆ど社会生活が営めない。ではどうするか。やはりまたここに至っても、捨てるのである。

 1の観念(一神教イデオロギー)も、0の観念(小乗仏教大乗仏教)も、無限の観念(神秘主義・エゴイズム)も全て捨てて、魂も直観も空すらも信じない人間を仮に想定してみれば、彼彼女ほど独立独歩の現存在は無いだろうと思われる。彼彼女にとって最も重要な緊迫した課題とは、善く死ぬことの実現である。死の恐怖が空であることを体得すること、これこそが現実世界で起こり得る、善の中の善、最善の実践であると考えて来た。ガンジーの名句を引用すれば、明日死ぬかの如く生きて行き、永遠の生命を得たが如く学ぶのが善い生き方であるはずだ、と。あらゆる観念を捨て去るとは、つまり観念など存在しない、または言葉によって記述することが不可能な境地に至ることであり、悟りの証は存在しない。ハイデッガーのいう道具ではないのだ。自然(認識するあらゆる対象物)も、道具(機能そのもの)も、現存在(死をよく恐れる人間の在り様)も、全て存在しないことを認識することを「悟る」と呼ぶのである。人間が初めて0の観念を認識した時と心理的な情景は似ているのかもしれない。0を発見し、0に還元される。それは恐らく悟りが理論的に可能であることを示すと殆ど同時に、百万遍に一回程度の0に極限まで近似した確率であって、悟るのは不可能だと思って我武者羅に毎日を粛々と過ごした方が、もしくは元気に幸福な暮らしを求めた方がよいのだろう。相対主義に陥って無限の快楽に耽ることは罪だが、といって絶対主義を目指して精神をすり減らすのも健康を害すので、そうではなく、そういった極端な態度を排すことが必要であることを絶えず認識しながら、欠如と飽満を求めない、やはり中庸 を目指した生き方をすべきであると私は考える。

 いろいろと語ってきた。それにしても私は一体いつになれば問うことを止められるのか?善く生きることだけを選ぶ境地に達することが出来るのか?神もイデオロギーも自己愛すらも退けた後、置き去りになった私の魂はもはや中庸の態度を持とうと頑張り、確率論的な期待値を唾棄して、空洞 を認識するためにその日暮らしをするだけだ。しかしそもそも空の認識とは方法論になりようがない。認識の証を示すことが出来る筈がない。シンクロ率が400%を超えるのだから、本人にも制御できない。

 恐らく、時間も空間も意味を失うのだろう。すべての認識が達成され、すべての美が表現され、すべての真理が到達される。夢幻はすべて現実になり、現実はまた全て夢幻になり、目が覚めた状態で寝ることが出来て、永遠に覚醒している。または永遠の眠りの中ですべてに対して沈黙を守っている。不可思議なことが一つもなく、全て当然なのに、ありとあらゆる感覚が不可思議なことを不可思議なものとして把握する。感動せずに感動する。何を言っているのか分からないのに、その真意をすべて把握することが出来る。無限に大きくなったり小さくなったり、細部の隅々まで明らかになり、更に、全体の完全なる構造も明らかになる。無限の眼と手と足を持ち、その全てが俊敏に動き、局所の動きを完全に捉える。

 もう何を言っても神様には敵わない。こんな観念は、存在や時間を通り越している。神は本当にいらしゃるのか?神は己を把握するのか?すべての問いに答えることができるのなら、問いという概念も答という対称概念 も存在しなくなる。対称が無ければ、空間は存在しない。空間が存在しなければ無論時間も意味を失う。永遠も一瞬もなく、極大も極小もない。分からない。これは脱言語空間である。言語的に考えること自体がナンセンスなのだ。可能であるとするなら、それは行為的直観 に依存するしかありえない。

 行為的直観とは文字通りの意味である。つまるところ、行為と直観の間に密接な関係があるという事である。一つ、行為的直観とは何か、分るようで分からないすこし分かる小噺を試みてみる。

 私は普段家の中では眼鏡を掛けて居る。この眼鏡は全体がプラスチック製で、折り曲げることが出来るくらいに軟らかい。長時間の使用に耐えるため、何時間掛けていても私は眼鏡が己の鼻の上に乗っていることを殆ど意識しない。特に集中して物を書いている時などは、眼鏡越しに物が見えていることにまず気づかない。一方私は、外に出るときは必要に迫られたとき以外極力眼鏡を掛けない。これはつまり自分には眼鏡が似合わないと思って居るためで、己の面構えと眼鏡付きの顔とを鏡の前に立って比較考慮して、不便であるが裸眼のまま出掛けるのである。視界がぼんやりして夜中に歩くときなどは非常に危なっかしい。本来の私であるはずの裸眼から見た風景はぼやけて判然とせず、時に異様に不気味に感じられる。つまり私の眼は嘗て視力が良かったころの様な機能を失って、今では全く精神にフィットしないのである。しかし私は自分の面構えを優先するために、外では不自由な身体に弄ばれている。家に帰って家族以外の人間が居ないのを知ると漸く安心して眼鏡を掛けて見る。すると、驚いたことに(私は毎回驚くのだが)明瞭度にしろ解像度にしろ色の鮮明さにしても、裸眼の時とは比べるべくもなく眼鏡越しの視界は澄み渡っている。しかし、それでも尚私は、本来の私とは何かと問われれば、眼鏡を掛けていない私を想定して譲らないのである。私にとって眼鏡は顔の一部ではないのであって、薬や鋏のような一時的な便利道具に過ぎないのである。

 これとは対照的に、私は己の尻の下に柔らかなクッションを敷いている。大分傷んできたため全く座り心地は良くなく、絶えず足をもぞもぞと動かしては尻とクッションの最適な位置関係を図ろうとする。しかし終ぞしっくり安心したことはない。私はこのクッションのことが無性に好きでたまらない。習癖のように尻の下に敷かずには居られない。たとえそれが快適をもたらさないと分かっていても、クッションの不快さが無ければ落ち着いて本も読めないのである。先ほどの眼鏡の例を考えれば、こちらのクッションは私の本来性に関わっている。自分の絵を描いてください、と云われれば、私は裸眼の己がクッションを敷いて椅子に座っている絵を描くだろう。それくらい、私とクッションは繋がっており、クッションも私以外の尻を包んでは行けない筈である。

 お分かりになっただろうか。狐につままれたようなお気持ちだろうか。何となくわかるだけでも相当高度な現象であるに違いない。そもそも行為的直観は、空語であり、言明できない現象の為、いくら論理的な帰結を願っても無理である。その際に登場する方法論が類推アナロジー)である。「例えばこんな風な話だ」、「強いて言うならばこういう事だ」、「と言うならば、実はこういう事になるだろう」と言ったような、論理と修辞の中間色を持つ繋ぎ目によって、弁証していく方法のことである。対象をそのまま描写するのではなく、もう一つ別の似た対象を持ち出して、両者の鏡像関係に置き据え、両者の間に相補的作用が働くことを期待しつつ論を進める。書き手もこの話がどう転んでいくか分からないため、ドキドキハラハラしながら書いていく。まさにこのブログそのものである。書き手の誠実さと体力が勝負の分かれ目だ。

 今日はもうおしまい。