Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

言葉遊びの危険

  如何に振舞えば愛すべき観客に喜びと人生の深淵たるを知らせる事が可能なのか。最も誠実な役者になるには、弁証法の議論体系は役に立つものだろうか。役者とは何か。台詞とは言葉であるが、読むため聞くため書くための言語使用と、話すための言語使用には何れ程の隔たりが存在するのだろうか。

  シンメンモクとマジメの間に横たわっているような意味の隔たりについて思いを馳せるときに感じる空しさとは、イデア世界と現実世界の両世界に於ける規則と実践の乖離を認識するときと同様に、これは永遠の悲哀と悲願であるのかも知れない。しかし何の因果か、人間の哀しい性として、現実世界に居りながらイデア世界に思いを致すことが出来てしまう。もしも私が犬や猫や鳥であったならば、その様な無為に苦しむこともなく、全ての行いが有為であり尚且無為であり、認識の全てが直観であっただろう。そうした羨望の念は、全く自由に選ぶことの出来る人間ならではの苦悩であるのかも知れない。自由については詳細を次回以降に譲るとして、この自由に存在することの贅沢な悩みについては、私は未だに納得する解答を教授されたことも提示したことも無いため、保留にして置きたい。

  話を戻すと、役者についてその意味を考えるとき、私は役者と訳者の音韻の連なりを考えてしまう。そして両者が同音異義語である事以上に意味に於ても近接した関係を結んでいる筈だと、過剰に望むが余り、両者の間に奇妙な関係性を結んでしまう。

  ところでこの「奇妙である」とは即ち、私個人には一瞬の快感を催すが、他者には耐えられない位の不快に思われる現象を指している。私のような無知が、言葉の意味を創出するなどもっての他であり、言葉の歴史的な意義についての自覚が全然足りないことの証明に過ぎない。言葉遊びとは創出ではない。順列・組み合わせの妙技である。ルールの無い遊び場は何れ破綻し破壊される。私個人の内的世界に於ても、このような放埒は歓迎されるべき事ではない。辞書に過剰に依存する方が、意味を勝手に拵えるよりも遥かに安全である。