Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

IoTとAIから始める「認識」と「沈黙」のすゝめ

 数量管理については私は多くの事実を知らないが、Internet of Things(「モノとインターネット」)やArtificial Intelligence(「人工知能」)について、すこし話したい。恐らくIoTやAIの目指す社会の在り様は、定点観測からデータの保存管理、結果の面倒な下処理までの工程を全て機械化し、最終判断のみを人間の手中に収めて置くという事なのだろう。この判断の質量が、例えば原水爆の核弾頭や実験施設、原子力エネルギーを取り扱う施設や機構の管理、全世界のありとあらゆる人間や共存する動植物の生態系の根本的な事象など、政治学社会学・経済学・文化人類学のいずれにおいても「最重要事項」の範疇に属し、その選択を一度でも誤れば長期間に渡って不可逆的な結果をもたらす可能性があると見做される場合、機械(人工知能)を判断材料に大幅に導入することに対して、ある特定の時代状況に於ける少数の国家の国民による選挙機構や民主的な意思決定機構がどれくらい役に立つのかについて、私は今のところあまりにも危険性が高いと思うので機械の大規模な導入に反対の立場にある。

 反対の立場をとるには、しかしながら、反論に依存するための別の新しい根拠を示す必要が生じる。また同時にその新しい根拠がそのまま、新しい提案となるはずである。

 だから、これは一個人の提案に過ぎない。しかしこれは私だけが所有する提案ではないことが直観的に分かる。この提案は、私の判断や記憶に基づいているのであるのだが、その記憶の一部は恐らく、私の本棚に入っている有限の本の作者や、その本を出版している出版社に属している編集者や、また企画会議のメンバーにまで及ぶだろう。この遡及をもっと進めれば、私の記憶の一部は、本の作者の記憶であり、作者も人間であるがゆえに、作者が本を出版するにあたって依るべきところは作者の記憶と判断以外に、作者本人に関わる有限の事象が深く関わっている。翻って考えてみるに、私の提案とは、私個人という有限な身体を飛び越えて歴史と否応なく関わり、この関わりが帰納的に結論付けられることはつまり、自己の超越と自己の実存を結びつけるあるもの、かりにそれを魂という「呼び名」を与えるのならば、魂は無限とも思える循環に組み込まれているということだ。

 果たして道具による認識は、人間の認識を越えているのか。この問いは人間の認識は果たして無限だろうかと言い直すことが可能である。人間の言葉は否応なく引き継がれ、自己の実存を超越し、他者の自己、つまり他己へと引き継がれ、その他己はまた次の他己へと、人間が生存していく限りこの無限にも思われる言葉の循環から自己は容易に逃れることが出来ない。自己の魂が無限に近い循環であるとするならば、人間の自己認識もまた無限に属するのだろうか。有限の事象の連なりは、恐らく人類の歴史二万年まで遡ることが出来る。二万年の人類の言葉を、もし全て記述し纏めることが出来れば、それはもはや無限の知識を得たと言ってよいのだろうか。それについて私は何も言えない。またそれについては引き続き研究の中で主要なテーマになっていくだろうと思うが、現在は沈黙しようと思う。

 無限を知らない有限な人間は、沈黙せねばならない。遠藤周作は『沈黙』についての講演会でそのような趣旨のことを仰っていた。隠れクリスチャンへの残虐非道な暴行と、「穴吊り」という拷問による回心の強制、そして「南無阿弥陀仏」と唱えることの意味。そうした、残虐さと信仰の間に横たわる何かについて、遠藤は「沈黙」の美学を説いている。これは、神が不在であることを表さない。禅僧は悟りが可能であるとは言わない。その点は、沈黙するのが美徳なのだ。私はこの慎ましさに大変心打たれる。誠実さここに極まれり、と自然に首を垂れてしまう。

 そうした苦しみと信仰の間に生まれるある種ドラマチックな側面は、あらゆる宗教に於いても、もしくは私の志す学問の世界に於いてもままに見られる現象である。柳田国男の『遠野物語』、西田幾多郎の『善の研究』、小林秀雄の『本居宣長』、中島義道のカント研究、西部邁の保守思想の研究、西尾幹二の人類文明の研究、在野の天才小室直樹の日本思想史の研究、また彼らの仕事を引き継いだ者たち、新たな場所を開拓した者たちの熱意。学問と宗教と表現の最も感動する場面は、まさに彼らの様な感動的な学者や宗教者や表現者の仕事に出会った時である。

 彼ら彼女らの天才たちの仕事は、引き継げないものと引き継げるものの二つに分かれるが、例えば小室直樹氏の様な大天才はもはや誰も引き継ぐことが出来まい。不世出の大天才であるからと言って、しかしながら、学問の神様として崇め奉ることは相応しくない。誰に対しても敬意を払った小室直樹氏の人格的潔白さにケチをつける結果になりかねない。無暗に名付けを増やすのは、時として認識を誤らせる。誤った認識は判断の基準を失わせる。狂った判断から基づいた選択結果の反省は有害である。だからこそ、無暗に名づけをしないよう心掛け、または己の無力さも同時に感じようと努めている。

 分かる事を反省し、分からない事には沈黙せよ。これが私のお勧めする視点の持ち方である。