Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

行為と直観

  最近はまっているのは西田幾多郎先生の提唱する行為的直観である。仮に西田先生の言うとおり、どんな直観も行為的直観であるとするのならば、行為的行為や直観的直観や直観的行為は嘘になってしまう。これは論理的な推論であるが、確かめてみる必要がある。

  まず行為的行為とは何を指すのだろうか。行為するために行為をしている状態、と仮定してみる。例えば、朝目が覚めて顔を洗いに洗面台まで歩く。顔を洗うという行為のために、重い腰を上げて布団から出る。この時の心境は、不快感と朦朧である。よく状況が分かっていないまま、不快感を無くすために行為を選択している。もし不快感よりも眠気が優れば、起きるという行為を諦めて、再び寝るというより快感の高い行為を選ぶだろう。とすれば、この具体例は行為的行為ではなく、直観的な行為を指している筈である。快感や不快感に根差した行為であるからだ。

  では一度行為的行為の話を横に置いといて、直観的直観とは何かについて考えてみよう。快感や不快感、眩暈、意識の混濁は直観に属する生理的状態であるが、この時に何かを閃いたり、積年の悩みが一気に解消するような現象は、直観的直観と言えるのではないだろうか。直観するために直観するということはあり得るのだろうか。

  しかしながら、これを想定することに当惑してしまうのは、果たして人間は意図して生理状態を完全に選択することが可能であるのか、ということだ。快感を求めれば求めるだけ不快感が募ることもあれば、最初は不快であったことも時間の経過によって慣れが生まれて、段々とやめられなくなって快感なものとして捉えてしまうこともある。詰まるところ、私は、気分の完全管理という目標を遂に実現することができなかった。つまりライフハックなど夢幻のイリュージョンに過ぎないと諦めてしまった。過剰な期待やストレスがあらゆる病を引き起こすトリガーになっている医学的知見からも分かるように、徹底した完全なる自己管理は私ごとき軟弱者には出来ない。

  ところで先日読んだ本の中に面白いことが書いてあった。それはこどもの遊びを分析してみると、回転、落下、反復、見立てと四つの範疇で分けることが出来るという話だった。おままごとにしても、自転車にしても、缶けりにしても、大縄跳びにしても、子どもは何度も何度もトライ&エラーを積み重ねても決して行為の選択を止めない。失敗しようが成功しようが快感を求めて何度でも挑戦する。まさに彼らは直観を求めて行為にひた走る。直観的な行為の達人は子どもである。

  大人でも、積み木や塗り絵やパズルを何時間でも黙々と集中して取り組み続ける姿を見るとき、どこか近寄りがたい聖なる雰囲気が立ち上がる。もはや快感すらも求めず、かといってトランス状態のような高揚にも陥らず、全く無理をせずに1つの作業に取り組むのである。誉められたいとか、満足したいとか、完璧にしたいという世俗的な満足を求めている場合もあるが、時として、そういった理由からではなく、ただそこにあるパズルを解くために解く、というような状態に陥る事がある。それはまさに行為的行為である。

  大人も子どもも関係なく、日常的にすることがある。それは笑いである。笑いとは行為と直観のスケールのちょうど真ん中に位置する。笑いについて何を知るか。笑いとは行為でもあり、認識でもあり、更に表現でもある。これは怒りや哀しみには見られない特殊な現象であるに違いない。その特殊性にも関わらず、我々はよく笑う。それは健康の証でもある。

  纏めると、行為的行為と直観的行為は遊び的なる行為である。直観的直観は、酩酊した時や極度に高揚している時に見られる認識の在り方だ。笑いは行為と直観の何れの場面でも見られる特殊性を帯びた表現形式である。

  このように捨象してみると、残った行為的直観とは全然一般的な現象であるように思えてくる。一般というよりむしろ素朴で自然と呼ぶべきか。素朴な直観、例えば、物の形が認識できるというのも、健常者にとっては自然な直観であるが、弱視の人が眼鏡を掛けて初めて色を認識したときのような感動的な直観も、やはり行為的直観であるだろう。認識していることすら認識していないような、あまりにも素朴で自然で、その前提すらも疑えないような認識。人間にとって本質的な認識の仕方こそ、行為的直観なのではなかろうか。それは他の行為や認識を貶めることではない。これはヒエラルキーではない。恐らくそうかもしれないというだけであり、実証科学の手法が及びにくい定義ではある。しかしそう定義することは直観的に可能である。西田幾多郎の哲学が、分子生命学者の福岡伸一氏や経済思想史研究者の佐伯哲思氏などの他分野の研究者から特に好かれているのは、両者が京都大学出身であることの影響もあるのだろうが、日本的学問の考え方の中心に西田哲学が根本的に繋がっているからかもしれない。

  哲学は永遠普遍のテーマを扱うから面白い。生命も経済も文学もどんな学問も、永遠普遍を考えるときは必ずや哲学にぶつかる。この遠回りにも思える行為は必ずや善い行為なのだと私は直観している。