Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

工夫という思想

 いっそ、全て諦めてしまいたい。父との葛藤も諦める。母との議論も諦める。医者からの理解も己の病の原因究明も諦める。己の目指したものをありあらゆるものを、諦める。言葉の獲得も、文体の真善美を発見する事も、教養を身につけた大人に為る事も、プロフェッショナルな翻訳家に為る事も、教員に為る事も、英語の研究も、学問の徒に為る事も、またはキリスト者に為る事も、仏教者に為ることも、ありとあらゆる前提を疑い己の基準と定義を詳らかにする事も、実存哲学者に為る事も、美の表現者としての詩人や小説家となる事も、飯を喰うために銭を稼ぐ手段としての物書きも、一切合切諦めたとすれば、どうだろうか。

 それは己が言葉や記号や論理を全て「無い」と諦めることに等しいのではないだろうか。言葉は無く、記号も無く、両者を結びつける論理も無い。不条理な生も無ければ、合理的な死も無く、説得も了解も納得も無い、究極的な実存など無いのではあるが、どうしても、無いことを表現するためには、在るものを利用して組み合わせて行くしかない。強いられた人生を選び取り、合理的な死を目指し、己を納得させ、他者を説得し、互いの了解を求めていくのは、一つのオプションではある。そこに誠実さはあるのだろうか。もし誠実さを求めていくにしても、誠実さもやはり無いのであるから、無いものを求めて在るものを最大限に利用することは、やはり、空しい。空しいことを自覚しながらも、己を前進させるための機動力の源泉は何か。空しさは解消できない、と言い聞かせるのは、余計に空しくさせるだけかもしれないじゃないか。元気で幸福な時は、わざわざ生命と死の空しさに思い煩うのは、不健康な習慣ではないのか。自ら健康を損ねる習慣を唾棄しないのは、誠実さに欠ける行為である。それは極限的に空の論理が働いたとしても、生理的な不快や直観的な不自然さを乗り越えることが出来るのか。

 到達も出発も、同じ空であるのならば、命の大切さを知るには一体どうすればいいのか。誠実な行為の先にあるのは、死である。不誠実な行為の先にあるのも、同様の死である。死の先に在るものは、誰も死から帰ってきた者が居ないため、分からない。分からないものを想定することは、不自然である。不自然さは不快感を産み、不快感は判断を鈍らせ、行為の選択に至って戸惑いを催させる。死後の世界や生まれる前の世界について、思いを馳せるのは、やはり楽しい想像の及ぶ世界にしたい。快感を求めずして、何が想像だろう。楽しくない小説は、深淵な事実を捻じ曲げてしまう。だから、私に出来ることは、早急な結論を下さないままにしておく、ふとした瞬間に問いを思い出す、忘れないための工夫であろう。記憶は無常であり、判断も無常で、認識は不可能である。だからこそ、ノートと鉛筆や、パソコンの記憶媒体、このブログのような電子媒体などを全て活用して、いつでも問いを己に差し向けられるような状況を作るために毎日工夫することだ。必死に生きながらも無を認識しようと努めることと、空虚な生活を送り続けることは、違うだろうか。それは、誰にも判断できない。私はただ、そのどちらの生活を送った経験があるが、どちらかと言えば、前者の生き方が快感度合いが高いというだけだ。立派な生き方ではない。立派も蔑みもない。快楽を貪る生き方、苦しみを受け入れる生き方、そのどちらも了解した上で、尚慎ましく、犬や猫や雀のように、ただ産まれて生きて死ぬことに過剰な情感や期待を持たないような、超然とした生き方。というのも、生きていること自体が善か悪かさえも不明なのだから。

 死の認識を改める前に、生き残るための工夫が必要だ。生きていれば、なんとかなる。不幸でも不健康でも孤立していても貧しくても、生きていればなんとかなる。なんとかなるとは、言明できない。ほとんど祈りに近い。だから、なんとかなるように祈りを捧げることも、また一つの工夫である。不健康にならないように食事や睡眠に気を配るのも工夫である。貧困は気を病む直接の原因になり易いのは、この世の定めにも似ているのだから、ある程度の仕事と働きによる収入源を見つけ出して行くのも工夫である。

  工夫しよう。