Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

ライフ・スタイルを決めた!

  空の可能性を認識して、それを肯定するにも関わらず、尚言葉や論理に期待するのは果たして悪なのだろうか。悪ではないだろうし、善でもないだろう。空について言葉や論理は当てはまらないのである。無限の存在に、いくら言葉の礫を投げ掛けても、論理的な数式を掲げても、無限は反応しない。己の空虚な情感も、眩暈や吐き気も、空であることの認識に役立たせているのは、己の空洞である。

  空洞を空洞として認識するには、空洞から出て見ないといけない。トンネルの中で生まれ育ち、一度もトンネルの外に出たことがなく、またトンネルは余りにも地下の奥深くまで掘られているために、決して地上の光を見ることはない。しかし、その事を伝えるのはトンネルの先に微かに見える太陽の光や暖かさである。もしくはトンネルのことを熟知している老人の杖の先である。しかし、太陽の陽光も、老人の知恵も、遂に示すことができなかったのは、己の存在が如何にして規定されているのかという問いである。

  仏教者は言う。全ては空であり、諸行無常である、と。キリスト者は言う。全ては神の御技であり、神とキリストと魂は一体である。ムスリムは言う。ユダヤの民は唯一神アッラーにより選ばれた民であり、アッラーを信じるものだけが永遠の土地、カナンへ導かれる。その旅路は苦しみと哀しみに満ちているが、決してアッラーに怒りを差し向けてはならない。汝に石をぶつけるものは全て神の怒りを知らない不届きものであるから、一切を無視せよ。神主は言う。天皇こそ現世における最も偉大な究極的実存の姿形である。下々の民衆は、天皇の前では一切の差異はなく、天皇の御心に沿うことだけを優先するべきであり、天皇を奉る日本国民は、世界の安寧を保持改良するのを天命として、毎日を慎ましく、時に激しく生きなければならない。仮に天皇の御命を奪う輩が現れれば、全日本国民を挙げてお守り申し上げなければ行けない。天皇陛下万歳。

  現在の日本に生きる私は、有り難いことに憲法によって良心の自由が保証されている居るので、どんな信条を抱いても憲法上は良い筈である。(現実は、オウム真理教やその後継のアレフなどは公権力によってかなり生活の制限を受けているようだが、詳しくは知らない)本来個人の信条選択は自由であるが、一旦空の思想を取り入れると、生きるなかでの可能な選択は既に決定されている筈である。つまり、己の死であり、また己の死だけである。他人の暴力や自然の猛威によって殺されるか、自ら死を選ぶか、己の病に命を奪われるか、機能不全に陥り老衰するか、何れにせよ己の死を認識して初めて事に当たるのであって、その他の選択可能性は元々存在しないので、己の死以外の全ての行為、判断、認識は無である。否、己の死を含んだ全ての行為も選択もその規準も、善悪の判断も、美の表現も、自己の認識も、一切合切無であるのだから、死ぬための体だけあれば事足りる。更に否であるのは、己の体も精神もそれらを司ると推測される魂なる存在も無である。極論を言えば、生きるための必要十分条件は、死ぬ事を予測する魂的なる存在、ハイデッガーの言うところの現存在であるかどうかだけである。更に言えば、人間は生を授かったその瞬間から死を思うのであって、死をよく恐れているから赤ん坊は目も耳も手足も発達していないにも関わらず、泣くことだけは出来るのではなかろうか。泣くことは、周りに己の存在を確かめさせているのに他ならない。お前の迷惑は全く知らないが、俺は己の死をよくよく分かっているので、早くおっぱいを吸わせろ、おしめを代えろ、心地よく寝かせろ、起こすな、服を着替えさせろ、と言って泣き叫ぶ。赤ん坊が泣くのは至極当然である。また、死を間近にした人間が殆ど赤子同然の状態になるのも、同様に肯ける。

  では仮に永遠に生き続ける体を持ってしまったら、この考えは初めて否定されるべきだ。永遠普遍の体を持つことも、科学の進歩によって可能かも知れない。死ぬことの恐怖から人間は遂に解放されるのだ!永遠の魂を持つことは、如何にして可能なのか。肉体は滅ぶ。記憶も完全ではない。だがしかし、科学の進歩によって魂だけは永遠普遍の存在となったら、言葉も記号も論理も歴史も、一切合切必要がなくなって、永遠に失われるだろう。否、たった独りの人間の魂によってのみ、それが保持されるだろう。人間の不死とは、つまり性的欲望からの解放も意味している。永遠に息が出来るのだから、子孫を残す必要もなくなる。また己が完全に知識を持っているのだから、教える必要もない。歴史という概念が失われるだろう。哲学も失われるだろう。数学も、英語も、物理学も、政治学も、宗教学も、分子生命学も、地質学も、国際政治学も、化学も、医学も、社会学も、芸術も、ありとあらゆる人間の叡知の結晶が、永遠に失われるだろう。そして、人間は人間でなくなって、ひとつの複雑怪奇な細胞として膨張していく宇宙空間の中で永遠に存在するのかもしれない。それはまるで地球から放たれたロケットが宇宙空間で等速直線運動を維持し続けているのと変わらない。果たして、宇宙の膨張する速度を、人間の魂は超越出来るのだろうか。宇宙空間の外側は何があるのか。もし統一した人間の魂が、宇宙の外に吐き出されたら、魂は崩壊するのだろうか。何事もなく、また新たな宇宙を旅するのだろうか。もしくは、宇宙という壮大な物語にthe endのピリオドが遂に打たれて、二度とその物語は語られることなく、あったこすらも誰も覚えていない時間が来るのだろうか。

  否!物語は最初から始まっておらず、展開もなく、終止符も打たれずに、本など始めから終わりまで一切書かれていない空白だとしたら?私は一体全体、何を読んできたのか?この記憶も空白なのか?だとしたら、目の前の本棚に入っている文字は、空白の「文字化け」に過ぎない。空白の存在は色形を司るのか?色も形もなければ、感覚も認識も存在せず、一切が虚無的時間の粒子の結晶としての空間であり、纏めると、一切合切が幻想つまりイリュージョンであるのならば、もはや生きる価値などない。それは死ぬことの価値を一切問わない中道の姿勢である。生死を超越すれば、永遠も一瞬もなく、普遍も独自もなく、依存も独立もなく、自己も他者もない。遂に苦しみから人間は解放されるのである!悩めなくなってしまうのだから!しかしそれは幸福であるのか。恐らく、幸福ではないし、不幸でもないのだろ。言明すら出来ないので句読点と論理の記号の連なりにしかならない。意味と機能を同時に失うのである。例えばこんな感じだろうか。

 

  。。「」。。!!!。、「、。」。!。、、!、。!。、。!、、、。!!。

 

  もはや言葉か記号かも分からない文字的なる記号的なる存在は、私の手に負えない。有限なる私の体ではこのような不可知の存在を完全に認識できないからだ。手に負えないからこそ、私は認識を諦めたのである。認識の敗北を認めたのだ。

  分からないことを分からないと言い切るためには、言い張るための元気な体と、体を維持するための暮らしが必要になってくる。その二つだけあれば、当面の間は良い筈だ。何時か何処かで本当に死んでしまうのだ。だからこそ今はじっくりと腰を据えて、現世の煩わしさから離れて己の死を懸命に取り組めばいいだけだ。また今すぐでなくても良いのである。焦ろうが、超然としようが、そのどちらも認識とは程遠い事に変わりはない。頑張ろうが頑張るまいが、死ぬことに何ら影響を及ぼさない。目標を持たないことを目標にするのである。矛盾を矛盾なく理解する、と言えば分かるだろうか。例えて言えば、誰からも説得されず、誰にも同意せず、同時に、己を信じることなく、納得もせず、結論を下さない。絶えず流れる川を認識するがごとく、一切は無常であるからして、依るべき物語も必要ない。静かに、清らかに、祈っていれば良いのである。

  用意ができたと直観するまで、動き過ぎないこと。私の命を掛けて守るものは、当面の間は私の命と家族の命、友の命だけである。自殺も人殺しも本質的には善か悪は判断できないが、当面の間は悪ということにしておきたい。これは人間の生きるための工夫であり、それ以上でも以下でもない。