Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

問いを忘れるな!

  言葉を言葉で定義付けることは、極限すれば、全て空虚な存在であるとしか言えまい。論理を論理付けるものは、また別の論理であるために、言葉の定義と同様に、極限の論理は、全ての記号と法則は成り立たないことの証明に過ぎないという、空虚な存在記号の集合でしかないだろう。言葉と論理を繋ぎ止めるのは、書き手や話し手の説得しよう、納得しよう、反論しようとする熱意や、間違った事を言うまい、書くまいといった誠実さである。とするのならば、熱意や誠実さを再び定義付けるものは何かという問いが立ち現れるだろう。その時に私が想起するのが西田幾多郎の行為的直観という仮定であり、ハイデッガーの解釈学的循環というシステムである。

  もしかすると、この思考の在り方は、30年遅れの発想なのかも知れない。この種の議論は既に多くの次世代の哲学者や思想家らによって、より高度な理論や改造された枠組みへと変化しているのかも知れない。だから、勉強不足であるのを承知の上で、話を更に進めてみる。

  行為的直観とは、行為の中に直観が内在しているということだ。座禅を組むときに心が静まり、洗われるような錯覚に陥る事がある。それは座禅という一連の形式に沿った行為の集まりの中に、静寂と清潔の直観的な認識が、既に内包されていると考えることが出来る。静寂さと清潔さを求めて座禅を組むのではなくて、座禅を実践するという意思と行為の中に、想像もしていなかったような驚きや哀しみといった情念の形をした純粋な直観が、冬の朝に立ち上る朝靄のようにじんわりと下の方から立ち上って来るのだろう。

  次に、解釈学的循環とは、人間が己の死を絶えず見据え続ける現存在と規定して、死に向かって走り続ける可能性に満ちた実存として解釈し、宇宙の始まりから終わりまでの壮大な物語を構築する世界内存在として、感覚が認知するすべての事象を自然と捉え、そこから己の認知を拡大するために自然から道具を作りだし、己の死を乗り越えようとする道具的存在へとレベル・アップしていく。こういった人間の発達段階を細かく分類するシステムこそ解釈学的循環である。そうした細やかな人間像の構築を終えたあと、ではこういった規定の根拠は何処にあるかといえば、それは時間の規定に他ならないという訳である。行為的直観を経て死を思うにしろ、死を遊ぶ可能性にしろ、宇宙の終わりに思いを馳せるにしても、時間の存在が規定されなければ一切の意味と価値と機能が失われてしまうはずだ。仮に時間は無から生じ一切が無に帰すのならば、今まで語ってきた世界内存在としての自覚や、道具的存在としての工夫にしても、「無の循環」の通過点に過ぎないではないか。

 では時間は果たしてどう規定するのか。アインシュタイン相対性理論は、感覚と時間のズレを教えているそうである。好きな人と一緒に居る時間は短く感じられ、嫌いな人と一緒に居る時間は長く感じられる。これがアインシュタイン本人が定義する時間の相対性理論であるそうな。つまり時間は物差しのよう等間隔に規定できないのだ!本人の気持ち次第で如何様にも時間間隔は伸び縮みする。であるとすれば、今までの規定も時間の伸縮性を考慮せねばなるまい。時間は未来から現在へ、現在から過去へ流れている。この流れを堰き止めることは出来そうにないが、流れに一切身を任せるのと、流れに必死に逆らうのは本人の努力次第だ。仮に一切の自然も現存在も時間の流れによって刻々と変化をしているのならば、世界内存在は全て()で括ってしまって意味を失わせればいい。もしくは全ての文章の結論を「というのは全て嘘です」と疑問符をつけることが可能だ。もしここまで開き直って疑いを表に出せば、たとえ偉人の書いた傑作の論文だろうが、疑い様の無い位完璧な定理の証明も、全て疑うことが論理的に可能になる。あなた自身の解釈次第で世界は変わる。時間も殺せる。死ぬことの恐怖から解放される!これは解釈学の最も素晴らしい点だ。しかし、その解釈を続けて行くと、解釈の解釈の解釈の解釈の・・・と無限の連なりを持つに至るだろう。それが解釈学的循環である。

  この行為的直観から始まり、解釈学的循環に至ってはたと立ち止まる。果たして私の解釈は一体どこから来たのか。言葉にしても記号にしても数字や論理の体系にしても、先ほどから引用している西田幾多郎さんにしろ、ハイデッガーさんにしろ、アインシュタインさんにしろ、私はさっきから全ての言葉も定義にしても、過去の天才秀才達の仕事の恩恵を有り難く(古本を買っただけで!)受け取っているだけではないか。では、人類史上初めて言葉を作った人間は、一体誰からの歴史を遡ったのか。始まりの人間は、如何にして言葉を得たか?人類史の始まりを考えるに至って、ここでも論理的に矛盾が生じる。評論家の呉智英さんは「つぎはぎ仏教入門」の始めにこんな提案から始めている。仏陀は仏像を拝んで悟りを開いた訳ではない。なぜならば、仏陀の前に仏陀はいない筈である。キリストは十字架の前に膝まずいて祈りを捧げた訳ではない。キリストの前にキリストは居ない筈である。この「前提を疑う」という真摯な姿勢こそ評論家の資質であるのだろうが、では無の思想についても「前提を疑う」を当てはめれば、一体どこまで遡及出来るのだろうか。

  無の思想とは、言葉による表現、論理による定理、造形による提示などの一切のホモ・サピエンス的「智慧」を超えた、宇宙的な体系であるとされている。現世の悟りは不可能であるとされている無の思想を、人間は一体どのようにして「理解した」と言うのか。誰からにも教わることは出来ないので、「無の思想」という「名付け」も出来なかった筈である。果たして「ムノシソウ」という音の連なりも、その本性を表すには至らない「仮の名」である筈だ。宗教の始まりを考えるに至って、初めに認識した人間以外の全ての人間による真の認識を一切規定できなくなるのだ。だからこそ物語作者は、ここの不明瞭さにかこつけて、色々と宗教の始祖の誕生に脚色を行うのだろう。宗教のいかがわしさの最たるものは、悟りの可能性が本来無いものを、「私の書いた物語に於いては有る!」と断言するフィクショナルな語り口に生じる。ダブル・スタンダード(二枚舌)だからこそ、誠実でないのである。分からないと、言い切ってしまえば良いのに。小説は元々大した芸術でないというのも分かってきた気がする。

  話を戻すと、私の解釈も宗教の本家本元の始祖の解釈も、来たるべき「時間の終わり」には誰も彼も、全く同じように無に帰ってしまうのならば、どんな解釈も意味を失うだろう。私は自分の意味が失うと想像する途端に不安が生じるのを感じる。己の死すらも意味を失い、行為の判断規準がボロボロと崩れ去る。無に帰る感覚こそ行為的直観と言うのならば、まず間違いなく無の思想は存在するだろう。不安になってしまうからだ。不安は死の予感なのだろうか。不安があるから、無の思想もあると言えるのではないだろうか?

  否、その不安も空を想定すれば存在しない筈だ。では存在しないものが何故これほどまでにリアリティを持つのか。リアリティを生じさせるのは空想である。空想を生じさせるのは現在の科学の解明するところ、脳の機能であるようだ。脳の機能は神経細胞シナプス同士の極小の空間で取り交わされる情報伝達物質の交換だと聞く。仮にそうであるとすれば、神経細胞の極小の空間を更に分割していけば、一体何が見えるのか。無限に小さく視野を狭くしていけばしていくだけ、見える範囲は極限まで大きくなるはずだ。しかし、それはもう「見える」という行為の意図、つまり把握と理論化の域を越えてしまっている。つまり、見え過ぎてしまうのは何も見えないのと同じなのだ。

 これは、不安になり過ぎるともはや不安であるのか落ち着いているのか、己では判断が出来なくなるのと似ている。判断ができないのは、己の死すらも遂には分からないことを意味している。死の恐怖は、確かに在るようだ。これは最も現実味のある「フィクション」(物語)である。しかし、本当に自分が死んで見ないと己の死を確かめることは出来ないし、死んだ後は真実を他者に伝える手段が永遠に失われてしまっている。ギリシャの哲学者は死と真実の関係について心得ていたからこそ、死を忘れるな「メメント・モリ」を合言葉としていたそうである。立派なことである。

  ここまで話すと、もうなにも話すことが無くなってきた。疲れではない。言葉を尽くしてしまったら、論理から逸脱せずには居られない。超然としているしか能が無く、何をしたらよいのか、何を書いたらよいのか見当がつかない。私の中で一体どの様な心境の変化があったのだろうか。

  時間の始まりもなければ、時間の終わりもなく、一切は空そのものであるとする。そうすると不思議なことに今までの不安は一気に落ち着きへと変化する。諸行無常。色即是空・空即是色。輪廻転生に解脱と涅槃。悟りの境地。こういった仏教の「物語」を想定するだけで、殆ど救われたような錯覚に意図して陥ることが出来る。悟りが開けないことを知ってやっと安心出来るのだ。諸行無常の生を全うしようと思えるのである。だから、「仏教はこの世で死なないための工夫である」と禅僧の南直哉さんが仰るのは本当のようである。だってそう思ったら楽なんだもん。確かに、この考え方に於いて、己が物凄くエゴイスティックになっている事は認めなければなるまい。しかし、私はそれで生きていけるのならば、「当面の間」はそれでいいと開き直っている。恐らく自分はこの半年間、開き直るための論理的な空語が欲しかったのだろう。だって、仏教的な想定無しでは、純粋な論理的な帰結としては今すぐここで死ぬしか他に方法がないんだから。生きているという不条理な情況からの超越としての自決は、たとえ論理的帰結であるとしても、実存の不安を超えるほどの説得力を持たなかった。純粋な論理的な解決方法が、不条理な生を送っている人間にとって、とても不自然に感じられるのは、人生というい大きな物語の最終局面以外でも頻繁に起こることだ。人間の不条理さは、まさに不条理でない事を不条理だと感じてしまう生得的な認識のズレにあるのかもしれない。

 機械が死を恐れないのは、これも当たり前だが、機械にとって死とは生の反対としか規定されてないからで、それ以上の価値付けを機械自体は求めないからである。人間はやはりどうしても己の死だけは何か価値があると思いがちだ。そんな事は勿論無いのである。生まれた価値も死ぬ価値も、同様に存在すると言えるし、同様に存在しないとも言える。どちらとも言えるとは、そもそも存在しないのと一緒だ。価値は存在しない、と言い切られて初めて、じゃあ生きてみようかなと帰結できた。

  私は己のどうやっても拭いきれない気持ち、つまり「今ここで直ぐに死ぬことが論理的に正しい」と頭で分かったとしても、出来ない。死の恐怖とは死よりも恐ろしいのである。いやもっと言えば、人間に生まれた以上死ぬより他無いという事情は、死者になることよりもずっと恐ろしいのだ。死者に為れたらホッとする。でももし仮に、死んだと思われたが実は生きていたらどうしようか。身体は完全に組成を失い、物質的存在にまで還元されたとしても、魂だけは息をし続けていたらどうしようか。宇宙の終わりまで、永遠に魂だけ生き続けたらどうしようか。しかも魂だけになったら、己の意思は行為にまで至らない。輪廻転生の様に、虫に成ったり、亀に成ったり、また人間に成ったりしても、死ぬ瞬間だけしか魂が実感できないとしたら?生きている間は魂がなくて、死んで生まれ変わる一瞬の間だけ、継続した魂になってしまったら?永遠に僕は僕のままなのだろうか?

  この話は、恐らく手塚治虫の『火の鳥』からの影響を受けているのだろう。頭の中のイメージが完全に手塚治虫の書いたキャラクターだからである。だからと言って論理にケチが付いたわけではない。むしろ、手塚治虫という天才も、やはり死の恐怖と戦っていたのだろうと推測するだけである。

  死の恐怖を無に帰すには、仏教の論理が手っ取り早い。現世では悟りきらないと、反復して思い込むまで本に書き続ければ、公演で話し続ければ良いのだから。残った作業は、日々の実践としての修行と説教と、仏教書の管理と校閲だけである。シンプルなものだ。私はこのシンプルさに憧れる。もう、犬や猫みたいに生きてみたいのだ。世間の煩わしさから離れて、シンプルに生きたい。かといって苦しみが全く無くなるわけでも無いだろう。仏教者といえ人間に違いないのだから、葛藤も在れば、争い事もあり、上下の関係も多少はあるだろう。俗世への心配も募るだろうし、産み育ててくれた母親への心的な繋がりも完全には切れまい。それでも尚、仏教者であるには、問いをやめない姿勢であるのだろう。

 中学高校の恩師、Y先生はよく私に言っていた。「大学受験で終わらんよ。一生勉強するんよ。」と。これは、問い続けよ、という禅僧の生きる姿勢そのものである。

  かといって私は別に出家したいわけではない。ただ、そういった姿勢を己に言明する必要があると最近になって感じている。前に進むために、過去の自分の教訓を言明し、未来の己の変革に役立たせたい。失敗しても、成功しても、いずれ死ぬことに変わりはない。この「どうせ何やったって死ぬんだから」という言葉は落ち込んでいる時には励ましの言葉に為る。普通の人間は、私のようには悩まないのかもしれない。実存思想の書物を紐解くまで悩むものは十人か二十人に一人くらいの割合だろうか。多くの人は、経験論から「そのうちなんとかなるさ」と、早々に諦めることが出来る。私のような論理中毒者、活字中毒者にはその発想の飛躍が出来ない。何時までも言葉を論理の糸で紡ごうとする。だから、終わりがないので、終わりが無い事を先に理解しようと思う。

  結論は何時も同じだ。諸行無常、色即是空、空即是色。現状を肯定するわけではない。終わりが無い事を渋々認めざるを得ない、というだけだ。この頑なで、繊細で、健気で、純粋な認識を求める祈りと問いの気持ちだけは死ぬまで失いたくない。絶望と希望の行ったり来たり。それが、研究者のライフ・スタイルなのかもしれない。