Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

死を遊んではならない?

 書くことは愉しい。読むことも愉しい。本を買って本棚を充実させることもまた楽しい。外に出て散歩するのも愉快だし、ふらっと立ち寄ったコンビニで新刊の雑誌を買うのもまた楽しい。ご飯も美味しいし、珈琲も美味い。煙草も美味しく、酒も美味い。友達は離れているが、電話するのもまた楽しい。直接会ってのんびり話すのも愉しい。公園に行って身体を動かすのも愉しい。時間を決めて論文を取り組むのも愉しい。病院に行って、待合室で人間観察するのも思いがけない発見があって楽しい。寝るのも好きだし、ずっと寝ていられる。起きるのも好きだし、ずっと起きていられる。何をしても、楽しい。何もしなくても、また楽しい。生きるのは愉しいが、死ぬのはもっと愉快である。

 よく考えてみれば、自分が死ぬことというのは本来、捧腹絶倒ものである。死ぬことはつまり「ボケ」である。誰か「ツッコミ」が居ないと、バランスが取れない。ダウンタウン松本人志さんは、私も大変尊敬する日本を代表する芸人さんだが、相方の浜田雅功さんよりも絶対先に死にたいそうである。俺の葬式でツッコんでくれ、とまっちゃんは笑う。ここまで達観できれば、もはや向かう所敵なしだろう。ダウンタウンの天下になるのも肯ける。

 死を遊ぶのは、必ずしも表現者の特権ではない。人間だれしも、己の死を遊ぶことが出来る。それは時として、悲惨な結果をもたらすこともある。また、己の死が他人の死を呼び寄せてしまうことすらある。アイドルの死というのは、まさにその典型なのだろう。

 私の尊敬するプロ野球選手は、カープ前田智徳選手なのだが、前田選手は天才的な左打者としてその才能が遂に花開いた瞬間に、アキレス腱断裂という選手生命を完全に断つほどの大怪我を負ってしまう。前田選手の口癖は、「前田という男は死にました。」「あれはそっくりの弟です。」だった。針の上を歩くように、恐る恐る打席に歩いて行く前田選手の、殆ど武士(もののふ)の醸し出す雰囲気は、観る者を圧倒した。怪我との闘いに打ち克ち、二千本安打の達成という偉業は、私にとって他の追随を許さない、大偉業であった。痛みとは最も過激な苦しみだろう。人間関係の軋轢も苦しみには違いない。しかし、そこには絶えず逃避という手段が残されている。痛みとの闘いとは、前田選手にとって、プロ野球選手の引退するか否かの葛藤であったに違いない。前田選手は、怪我の後、打席に立つ前には、必ず足に塩を塗り込んだ。神様に祈っていたのだろうか。だから、前田選手のホームランは本当にため息が出る位、美しい放物線を描いていた。

 死とは、苦しみでもあり、乗り越えるためのハードルであり、また遊ぶための道具である。死とは無限の空に最も近い存在である。だからこそ、死を弄ぶことを大人はしないのだ。災難が降りかかるかもしれないので、死者に対して弔いをするのだ。それは死者と生きた人間の間に、乗り越えられない絶対距離があることを意識させる。死者の前で、私たちは心を静める。もうすぐそっちに行くから、まっててね、と墓石の前で手を合わせる。もしくは、今抱えている問題を相談したり、問題が解決した報告をするのである。

 墓石は死者の標示であるが、私たちの記憶に死者は絶えず居る。私はいつも私の本棚や図書館の膨大な本を眺めていると、巨大な墓場に立っているような畏怖と、雅さ、異様さ、非人間的な物質の存在、魂の媒介する空間のような一種の妖しげな感覚に陥る。死を遊ぶとは、意識ではなく、言葉に於いて既に遊んでしまっているのだ。遊ぼうと意識せずとも、言葉や論理を用いている時点で、歴史に完全に依存してしまっている。だからこそ、ハイデッガーの実存哲学が、解釈学、物語論、歴史哲学と、過去に遡及する形態を持っているのであろう。言葉と論理を扱うことは、そのまま、墓石の前で手を合わせる行為そのものである。だからこそ作家には、一種の緊張感と礼儀正しさ、誠実さが求められるのだ。筒井康隆さんや星新一さんといった素晴らしいSF作家の言葉の根底に、死を大切に扱おうとする意識が流れているのは、だから当然なのである。

 死を最も軽蔑するためには、死の根底を最も深くまで認識しようと努めなければなるまい。漫画家の水木しげるさんや博物学荒俣宏さん、ホラー小説家の京極夏彦さんといった所謂「ゲゲゲ」学の皆さんも、やはり己の死を基底とした作品作り、仕事への取り組みを為されているようだ。それは死を扱う作家なら皆そうである。怪談の稲川淳二さんにしても、恐怖漫画家の謀図かずおさんにしても、そうである。または、今研究しているギャングスタラップの二大巨頭、Tupac Amaru ShakurとThe Notorious B.I.G.にしてもそうである。彼らの死への飽くなき情熱は、わたしにとても大きな影響を与えた。つまるところ、私は生命尊重の芸術よりも、死の尊厳を称える芸術の方が好きなのだ。

 生命至上主義についてはもう何も語るまい。今日からは、死の放つ存在感について語っていきたい。