Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

石を捨てる

 この半年間で私は二百近い記事を更新した。同時に、論文も執筆をした。論文の提出こそ至らなかったものの、紙の枚数に於いては百枚近い分量になっただろう。この半年間は私の個人史に於いても、最も書くことに専念した時期であるのは疑いない。書くと言っても、何か目的があって書いてきたわけではない。論文を書くことには勿論目的があった。修士号の獲得である。しかし私は修士号を失う結果になっても尚、己の感情を吐露するが如く、書き続けた。書かずには居れなかったし、書かなければ居ても立っても居られなかった。書くことと生きることが、そのまま一致した半年間だった。そして、その結論は、書かなくてもよい、ということだった。

 書くことに飽きたのだろうか。それとも薬が効いてきたのだろうか。恐らく、そのどちらも功を奏したのだろうが、最も私の生活を支えたのは、両親の献身的な働きと友人の深い理解である。もしも彼らが居なかったのならば、私は認識を誤っていたに違いない。だからこそ、在るのが難しい存在者に対する情念が、「有難う」という感謝のことばなのだろう。感謝のことばを述べる、挨拶する、お早うと言う、お帰りと言って労う。こうした「お説教」は死ぬほど嫌いだが、またそれは現在も尚生理的な不快感を伴うが、しかしながら、そう言わざるを得ない。挨拶運動など、他人に進めるのはもっての外だが、私個人では了解した行為である。それ以上でも以下でもない。 

 こうした言葉の数々は、私の意識を少しだけ越えた所に在るような気がする。私はこうやってパソコンに向かって指を動かしながら言葉を画面上に表示しているわけだが、頭の中にこれだけの情報が既に出来上がっているとは到底思えない。むしろ、指が勝手に言葉を紡いでいるという感覚である。だから、私にとって手や指は思考の道具なのだろう。もしくは口や眼や耳も情報を入れるための道具なのかもしれない。脳については、私は見たことがないが、寝ているときに見る夢などは、脳の機能の存在を感じさせる。つまるところ、身体全体で物を考え、考えを表現しているに過ぎない。

 作家という仕事は、身体全体で言葉を紡ぐ表現者である筈だ。作家がもし上手なダンサーであったり、舞台役者であったのならば、それは素晴らしい事だろう。並みの作家ではない証である。もしくは、作家の生活を全く別の収入によって成立させているとすれば、それも素晴らしい事だろう。作家の人生と、例えば、コンビニの店員の人生や、会社の勤め人としての人生、他なんでもよい、二つの人生を同時に内在化させているのだから、二倍の人生を歩んだことになって素晴らしい。詰まり、誰でも作家に為れる。やる気さえあれば。否、誰でも既に作家である。その証が表に出ていないだけである。誰でも研究者に為れるし、医者にも、宇宙飛行士にも、翻訳家にも為れる。その道筋が困難だとしても、絶えず道が開かれる可能性は否定しえないからだ。

 さあ、ここまで書いて、当初の目標を見失った。指に任せると、勝手に言葉が動き出す。初めのほうを読み返すと、結論、書かなくてもよかった、という落ちであった。落語の様な馬鹿馬鹿しい落ちである。言葉と論理を超えると、言葉も論理も必要なくなる。なぞかけ問答であるが、はっきりと自覚のある、認識である。共有できるのかどうかは、甚だ疑問であるし、それを認識したとして、どうだというのだ。毎日こつこつやれることをやって生活している人間たちの方が、よっぽど効率的ではないのか。

 効率をはじめから求めるのは、しかしながら、人間には出来るのか。生前、小室直樹先生は、愛弟子の宮台真司さんにこう仰ったそうだ。「もしその人間が超合理的な存在であるのならば、その理由は不条理なものだよ。」小室直樹先生の超合理的、超効率的な努力の背景には、日本が戦争に負けたからであって、二度と西欧文明に負けないように失敗から学ぶために、西欧人以上に西欧人の考え方を身につけようとされた、らしい。なかなか説得力のある話だ、と思った。では私個人にとっての、最も不条理な物とは何か。やはり、何といっても己の死であろう。もしくは、己の顔の出来不出来、頭の出来不出来、両親の出来不出来、生まれに育ち、生まれた国や地域、そして20年に渡る平成不況の中で育った環境、出身校の学友、教師の価値観、世界を根底から揺るがすような事件、9.11に3.11、7.26(相模原障がい者殺傷事件、「植松聖事件」)と挙げていけばキリがない。つまり、私は私の最も大切にするべき、己の死ですらも己の管理が出来ないのである。これは不条理以外の何物でもない。

 であるとするならば、二度と死なないために何をすればいいか。もしくは、一度きりの人生なのだから、やりたいことをする方がいいに決まっている。ではやりたいことを見つけるための基準は何か。認識の基準は空である。空を基準にすることはできない。では己の言葉に依存するべきではない。だから本を読むのである。漫画でも映画でも音楽でも造形芸術でも芝居でもコンサートでも、アカデミックな講演会でも、道端で見かける当たり前の風景でも、つまり認知できる全てが私の情報ソースである。過去、私よりもずっと偉い人間がこの世には居た。彼ら彼女らの生み出した全ての表象(言語、芸術、理論など)から、私個人の生きるための基準を探し出して、私だけの解釈を見つけ、言語や理論や芸術で再構成して、言語化、数値化、チャート化、舞台化、総じて「見える化」することで、後の世の人のタメに生きられるのではなかろうか。とすれば、私の今為すべき仕事は、可能な限りの古典や聖典、良いと思われる本を片っ端から読み漁る事である。もしくはノートと鉛筆を持って外を練り歩き、取材記者のように状景を描写する事だ。そうやって己の判断基準にどんどん磨きをかけていくのだ。そして、何時だって私の判断基準よりも優れたものが見つかったら、躊躇することなく、その基準を捨て去ってしまう。それこそ、空の空たる由縁である。石を磨く。そして、その磨かれた石を捨てる。その繰り返しである。

 無限の本を読むことは出来ない。予算にも、読む時間も限りがある。だから、身体を壊さない程度に頑張らずに、読めばいい。他の時間は仕事に充てればいい。自分が食べていける位稼いでいれば、当面の間は安心である。後は、家事や、部屋の片づけや、身体を浄めたり、色々と町を散策して面白そうな場所を見つけたり、人に会って話したりすればいいだけである。諸行無常、色即是空、空即是色。これだけ唱えていれば、私は救われる、気がする。