Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

覚悟の見つけ方

  書くことは楽しい。快楽を追うことは空しい。苦しみはサヨナラした。でも居なくなるとやはり寂しい。苦しめるものとは愛すべきものだ。愛すべきものは、何時も私を苦しめる。苦しみに意味はなく、意味にも意味はない。言葉は仮の意味付けに過ぎない。論理も仮の説得に過ぎない。数学的実在に於ける不完全性定理、物理世界に於ける不確実性定理について、もう少し詳しく理解する必要があるのは確かだが、私が理解できないからといって、その定理の証明が間違っていることにはならない。私の目と手と口によって反証明できないからといって、全ての論理が間違っているとは限らない。対偶の論理をここで用いれば、現在までに判っている証明問題を全て集めて己自身の理性によって納得するまでは、例え殆ど解読不可能な種類の困難な証明が真として世間一般に解釈されていたとしても己で納得するまでは決して説得されまい、という頑強な精神は、根本的に間違っているという事だ。自己認識の不完全性定理自己実現の不確実性定理を証明したような、清々しい気分である。

  私にとって殆ど全ての言葉は不明瞭で、殆ど全ての定理は理解不明であり、私にとって世界は絶えず混沌としている。全ての言葉の完全なる意味を把握し、心の底から記号の綾を辿るように納得し、理解し、更に他人に教えることは、私がこの世に生きている限り限り起こり得ないだろう。だからこそ、言葉や定理だけに頼ると苦しくなるのだ。論理の帰結として、己は完全でないことを証明したようなものだ。しかも学問の道も、宗教の道も、美の表現の道すらも、苦行するだけでは悟りが開かれていないと言われている。何処にも悟りへの道は無いと、本家本元の坊主すら言う。天才が悟れず、秀才も悟れないとすれば、知識に於いても実践に於いても劣る馬鹿な私は、一体どうすればいいんだろう。

  実践的な把握や論理的な理解は、私がこの世に居る限り殆ど無理な相談だろう。家は貧乏だからゲームは買ってあげれないのと母親から諭される子供と同じ気持ちだ。諺の通り、隣の芝生は何時でも青く生い茂っているものだ。だからこそ、僕はいま自分の中に既にあるものを工夫して組み合わせて大切にしたいと思う。でも、工夫は確かに新たな工夫を呼ぶが、絶えず完全でなく満たされない気持ちは残ってしまう。現世では決して満たされないことを認めた後は、もはや前世や来世に期待するより他無いのだろうか。

  それは嫌だ!前世も来世も輪廻転生も全て無くなったのだ。もう、色即是空で空即是色なのだ。色形は既に、私が悟るずっと2000年以上の遠い過去に消滅してしまった!神が死んだのを悟ってしまったニーチェは、1900年に遂に発狂してしまったと聞く。ニーチェの発狂は、天才が論理や感覚を突き詰めると殆ど狂人の姿に映ってしまうことを示唆している。僕のような馬鹿も本当に悟ると発狂するのだろうか。発狂しようとしまいと、悟ることの不可能なのは一向に失われないのが面白い。発狂は他者からの目から映った色形に過ぎない。無論、本人がどの様な心境なのかは分からないから、何とも言えない。ひょっとしたら、外見は発狂しているが、内的世界では平穏そのものだったら?

  嫌、もうよそう。発狂したいだなんて不愉快な空想は止めよう。とどのつまり、オウム真理教やナチズムのような破壊集団に為りかねない。空想を現実だと理解し、現実が幻想であると理解し、そんなことばかり考え続けた挙げ句に、発狂が健康になってしまい、人殺しが最善の行いになってしまったのだろう。

  善と悪の交わる点、そこに空があるとすれば、空白を埋めるのもまた空白であるのか。空白を埋めるとは?空から色形が生まれて色形から空が生まれた。色形は空と同値であるということか?線と線の交わるのを点と呼ぶが、最小の点とは何だ?面積も体積も無い、それでいて存在するもの?もはやこれは謎かけの世界だ。これは知的な遊びだ!どうやら色即是空とは遊びに過ぎない!

  それでは、、、。

  書くのもホドホドにしよう。読むのもホドホドにしよう。全ての思いを言葉にしなくてもいい。熱狂的に死ぬまで快感を求めるのは、猿のオナニーやウサギのセックスと一緒だ。空の思想でも、仮観の思想でも、中観仏教でも、ユダヤ教でも、キリスト教でも、イスラム教でも、神道でも、武士道でも、孔子論語でも、フロイトの深層心理学でも、カントでも、西田幾多郎でも、ギリシャ哲学も、インド哲学も、古代仏教も、ホモ・サピエンスの全ての歴史が明かしてきた素晴らしい定理や主義主張にしても、それら全てをひっくるめて「知恵」としても、その「知恵」に対して、言うなれば新興宗教的な熱狂やシンクロニシティや排斥や孤立化や洗脳といった危険な行為は、世界を破壊する位のヤバくなる可能性を絶えず秘めている。だからこそ色んな知識のベストミックスと、常識的な経験を組み合わせるのがリスク管理的に正しいはずだ。

  結論は、どっちでもいい。分かっても分からなくてもいい。ボチボチやれることをやるだけだ。魂の実在とか、神の証明とか(もう神は居ないことが証明されたみたいだけど)、どうでもいいじゃん。もういいよ。どっちでも。どんな宗教にしたって、結局イイタイコトは、地球のみんなが元気に健康で幸福な世の中を作る為に、やれることをボチボチやりましょう位の事しか言ってないんだろう。全ての宗教原理を関数にぶちこんで、一つの抽象を作り出せば、大方そんなところだと思う。やってないから知らないが、大方推測は出来る。

  ウルトラマンやスーパーヒーローに為れなくてもいい。超人に成らなくてもいい。凡人であることを認めて尚凡人に留まり続けるのを覚悟と呼びたい。自分の出来る最大限の働きを見つけて、その規準に照らし合わせれば事は前に進む。