Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

「眼差し」と「言い聞かせ」

 さて、覚悟が定まって、何かやろうかなと思って居るところである。さて、何から手を付けるか。私の思考の在り方は、やはり言葉や数量の関係の中から生まれることが多い。人からの助言もよく聞くが、結論を下すのはやはり、その助言を己の言葉に変換する作業工程を経て、論理的な位置づけが終わってから初めて、説得されたり納得したりする。だから、覚悟が定まったからと言って、言葉と数量を全て無であると言い張る訳にはいかない。直観として為すべきこと、情欲として求めること、論理的に不可能なことを求めんとすること、そういった「求め」を如何に整理しまとめ上げるか。

 まずは健康である。健康でなければ、仕事も趣味も人付き合いも始まらない。健康は、しかしながらあまりにもプライベートの話になるので、ここでは避けたい。

 心身の健康がある程度、認知され、感受され、数量として管理できる段階に至ったとして、次に何をすべきか。健康とは状態の獲得のみならず、状態の維持を図るための方法の確立であるだろう。簡潔に述べれば、どのような暮しを目指すかについて考える、ということだ。「暮し」とは、英語でライフ・スタイル、その直訳は「生活・様式」である。ライフとは生活という語彙の前提として、生き物全般の個々の生命を指す、大切な語彙だ。人間だけではない。人類と言った方が、よいか。ホモ・サピエンスだけでなく、その他大勢の生き物の「暮し」についても、頭の片隅に置いておかなければ不誠実だろう。スタイルとは、ファッション用語、建築用語として使われる場合では「意匠」、デザインと同義的に使われる。悪く言えば、「見かけ、見栄えのよさ」ともいえる。内実も外観どちらの均衡も執れた全体の統一としての意味になるならば、それは「文体」と言った方が分かりやすいだろう。

 「意匠」とは、服飾や建築物のような手触りや色鮮やかさや機能性と汎用性など持つ。一方「文体」とは、書き手の書き振り、話し手の話し振り、読み手が感じるある種の感触を指す。中島敦の『山月記』の持つ漢語の静謐さ、梶井基次郎の『桜の木の下には』に於ける醜悪と美の均衡、夏目漱石の『こころ』に見られる、プロットの不自然さと独白の誠実さ。こういった、美しいと賞賛される文章には、語彙と文法、筋の立て方、全体の統一、読み手への配慮と主張の分散などが発見される。言葉の機能を最大限利用したときに自然に(もしくは意図して)生まれる機能以上の「何か」—例えば「印象」や「歴史の証明」や「語り口」、「苦しみ」など—を読み手や聞き手に感じさせてしまう強さを、スタイリストと呼ばれる表現者は持っている。

 暮しの話に戻そう。ライフ・スタイル、つまり、生命への意匠という眼差し、暮しの中の意匠への眼差し、生命の中の文体という眼差し、暮しの中の文体を大切にする在り方。要するに、「眼差し」こそ暮しの中心となるはずだ。

 暮しとは自他の生命を大切にする配慮であり、自他の情感や意匠を言葉化して、理論化する習慣的誠実さを持とうとすることだ。それだけでも、かなり大変な暮し方ではある。もっと易しく言いたい。己の命を大切に、他者の命を出来るだけ守り、また、見た目だけで判断せず、言葉だけでも判断せず、より高次な客観的な視点から世界を眺めるのを習慣として言い聞かせるということ。

 自分では納得できるのだが、果たして読者に伝わるのだろうか。

 今日はここまで。