Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

「哲学塾カント」って?

 一度だけではあるが、何かを悟ったような気持ちに為ったからなのか、最近は事が前に(後ろに?)グイグイと進んでいる(ような気がする)。中観仏教や無の思想というのは、一度体験すると止められない、止まらない、かっぱ海老せんのように延々と享受することが出来る、無限の快楽なのかもしれない。快楽主義を肯定するわけでもないが、取り立てて否定するわけでもない、やや否定的な立場であるが、これもまた空なのだろうか、いずれにしても罪悪感を過剰に感じなくなったことが、今は有難い。

 罪悪感、己を呪いたくなるような恥辱の経験、何となく死んだ方がマシな気持ち。こういった、己を破壊に至らしめるかもしれない位強力な情念すらも、諸行無常という無限のテーゼによって、遂に否定される。刻々と現在は変化し、過去は消え去り、未来は不確定で不完全で信頼に足らない。そう考えるだけでも、どこか救われる。完全な計画を立てる必要も無ければ、完璧なライフ・プランナーを雇って己を鍛える必要も無く、狡い心や弱い体もそのままで良く、諸行無常ですべては空であるという事以外に知りたいことも余り無いので、永遠に本を読み続けなくてもいいし、永遠に思いを言葉や数量として表さなくてもいい。嫌いな人間と無理して付き合う心配も無く、逆に向こうから依存して来る相手には、キッパリと断るための勇気も生まれる。困っていると思ったら助ければいいし、どう見ても甘えていると判断するときは無視すればよい。自分を嫌いになってもいいし、そんなに嫌いじゃなくてもいい。自分大好き人間になっても(個人的には嫌いだが)世の中が苦しむことが無ければ、まあまあどうってこと無い。万事は大丈夫なのだ。

 時間割を作ろうというモチベーションが、一体何処から遣って来たのか分からないが、それでもより善い計画に沿って行動しているという快感は、確かに逃れがたいものがある。大変破廉恥な表現で恐縮だが、オナニーも完璧主義も、性的な指向も人格的な類型も本質的には似た者同士だ。快感のみを求めて反復し、改良を加え、より高い快楽を求めて、死ぬまで続ける。傍から見たら生理的な気持ち悪さ、つまり吐き気を催させてしまう行為がオナニーであり、そういう行為を遂に習慣にしてしまった人間が完璧主義者なのだろう。そのことを念頭に置くとまず必要なのは他者の眼差しである。その計画に沿って頑張る自分を想像してみる。もしその自分が、余りにも社会性を失っており、世間から憚られるような振る舞いを続けているのならば、更にここが最も大切だが、彼らの眼差しに気付いているのならば、その計画は町でやらない方がいいだろう。誰も住んでいない山小屋に独りで住むのならば問題ないのだろう。地元の小学生に「変なおじさん」呼ばわりされる程度の社会的制裁と被害で済むのだから。

 話が少し逸れるが、かといって他人から見て完全無欠に正常であると判断される行為を選び、またその行為だけしか選べないとするのならば、それは空から最も遠ざかった状況である。一切は空である「はず」なのにも関わらず、唯一その生き方、ライフ・プランだけという思考の在り様が、少し過剰である。例えば良い医者とは、患者によって様々な治療法を知っている医者であり、悪い医者とは、唯一無二の治療法しか持たず、患者を治療法に合わせる医者である、はずだ。正常と異常の区別の話は、それだけでも十分面白いので、また今度話したい。

 話しを戻そう。要するに私は、無理しない程度のベターな計画、毎日こつこつ出来て、それでいて為になり、人の為にやってあげている感覚が少ないような種類の活動も入っているような計画を立てたい。所謂フロイト用語の「リビドー」なる生の本能の充実と「タナトス」なる死の本能の制御がそこそこ出来れば、それでもいいのであるが、多分自分の為だけに活動する事はすぐに飽きるだろうと思う。他人様の為、と偉そうに言うけれど、結局のところ、そうしないと自分が気持ち悪いからやるだけと言ってもいい。最もその気持ちの純度が高まれば「自己犠牲」と呼ばれるくらいの、立派な行いと見做されるのだろうが、本人は自己犠牲している感覚は薄いだろうと思われる。無論、誰でも少しは見栄っ張りなところがある「はず」だから、人から褒められれば、「そうかな?」と思うものだ。

 どんどんと話が逸れる。つまり、どんな計画を立てればいいか。健康に気を遣うのはまあ分る。健康でないことには何も始まらない。今私はそこそこ健康になってきたので、身体がすこしウズウズしているのだ。余った体と心を持て余している。それなら論文に取り組むのが善かろう。朝8時から昼休憩を挟んで、夕方までコツコツやればいい。世間で謂う所の「クジゴジ(朝の9時~夕方の17時まで)」を基本にして、やればそれでいい。それでも身体がウズウズするのならば、夕方以降にアルバイトでも準社員でもいいので、無理のない範囲で働けば善いだけだ。恐らく直ぐには治らないだろうから、今年度一杯は様子見という所か。健康な状態で論文が出せれば、私にとっては、大きな一歩だ。

 自分で食べていく分は、自分の働きで稼ぐ。それくらいしか、もうモットーと呼べるものは残っていない。それにしてもこのモットーというのも罪な存在である。諺にしても名言にしても、余りにも的を得た簡潔な表現はついつい心を現世に縛り付けてしまう。毎日前提を疑う時間をどうやって見つけるのか。己に問いを差し向ける時間と空間の見つけ方とその実践こそ、最重要課題の一つだ。これは聖なる時間と空間と呼ばれるのだろう。礼拝堂や教会に通うことは、その意味で「お手軽な」実践形態であると言える。信心が実践より生まれるのか、問いから生まれるのか、車の両輪のように互いに影響を及ぼすのか、私には分からないが、神社や寺に行ってみることは先ず計画に入れよう。

 それではどの神社をどうやって、何時行くのか?日本に在る全ての神社仏閣を巡るまで、実践したとは言えないのか?もしくは、比叡山や恐山のような霊場に通い続けるのが善いのか?教会やモスクもあるし。そうだ!道端によく設置してある観音寺像はどうだろう?あれなら何処に行ってもすぐに見つかるし、地元の人たちによって管理されてるから、手を合わせてごみを払うくらいでもいいだろう。そうしてみようかな。

 では次に論文について。方法論を延々述べるのはさすがに疲れてきた。結論だけ。自分で設定した、しかもその結果が目に見えるような達成課題に取り組んで、たまに前提条件を疑う、その繰り返しでしかない。仕事についても基本は同じだが、論文と異なり賃金が発生したり、結果責任を取らされたり、チーム・プレイを強いられたり、理不尽なことを言われたりする。それも仕方のない事だ。私が出来るのは、契約の遵守と、言葉にして冷静に議論しようとする態度を身につけようと努めること位である。相手を説得しようとするのではなく、それが出来れば一番いいが大抵の場合難しいので、互いの意見がどこで食い違っているのかを了解するために議論する、位の心構えを持ちたい。これについて私は既にある程度その技術を身につけたので、少々のことでは酔狂の様に怒りに身を任せることは無い。その点、平和主義者である。

 健康の維持も、祈りの時間の確保も、論文提出も、就業とその維持も、それぞれを見ると余り大したこと無いように見える。しかし、計画を立てる上で最も重要な視点は、自分の身は一つしかない、という疑いようのない事実である。各々の活動を、全て自分の身体と心を調和させて行う、その困難さ。これは足し算的な発想ではない。むしろ指数関数的なストレスの掛かり方なのだ。仕事で疲れているのにも関わらず、健康のために食事を作り、寝具を整えるその大変さ。休んでいたいのにも関わらず、論文を進めるその大変さ。仕事に行きたいにも関わらず、夜になっても寝られないその大変さ。夜が明けるまで祈りを捧げていたいのにも関わらず、仕事に行く時間が迫って祈りを途中止めにせざるを得ない大変さ。お分かりだろうか。自分の身は一つしかないという不自由さと、時間が決して思い通りに一時停止やリピートや早送り、巻き戻しができない不便さ、己の気持ち一つ定めることが出来ない虚しさ、計画に沿うことが出来ない己の身体の虚弱さ、身体と心が離れ離れになって行くのに、無情にも時間は過ぎ去り、安寧の場所は奪われて、遂に生きることの苦しみから逃れることが出来ないことを「分かってしまう」辛さ。

 魂という存在を認めたくなる。この不自由な身体と罪深い心を離れても尚、自己存在が失われないような永遠普遍の不死の存在、つまり魂があればいいのになあ!もし魂が体の内部に存在するのなら、早くそちらの世界に行きたいなあ!そんな空想夢想をしてしまうくらい現実が厳しい人たちも、私に限らずこの世には一杯居るだろう。「死にたい」と呟く者の中には、生まれ変わりの物語を信じている人もいるかもしれない。死んだ後は怖くないはずだと信じたいのだろう。誰も彼も死ぬまでは生き続けないと行けない、飯を喰うために働き続けなければ行けない、独りで死ななければ行けない。死ぬことよりも、死ぬまで生きることの方がよっぽど怖いと言う一群の人間が、私を含めて少なからず居る。

 死ぬことについてよく考えるようになったのは、中島義道さんの本を読んだ影響が大きいと感じる。無論、きっかけは様々過去にあった。しかしそれを言明していくれたのは、中島先生であった。こういった問題について善く考えたい。先生の主催する「哲学塾カント」のことは前から気になっている。もしかしたら先生に会って自分が変わってしまうかもしれない、という不安にも似た期待があって、躊躇していた。しかし一切は空だ。カント塾も存在しなければ、中島義道という存在も空で、それに立ち会って感動(もしくは幻滅)する己もまた空なのだから、どうってことないのだ。そう思えるようになって、イッチョ行ってみるか、と思い始めた。万が一、これを読んでくれている方々の中に、哲学塾カントに実際に通われている方が居られたら、コメント欄に感想を残していただきたい。宜しくお願い致します。