Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

悟って「いない」ことの証明

  貴重な今日という人生を食事と散歩と妄想と遊びと睡眠だけで過ごしてしまった。そしてやっと目が覚めたら、私が寝惚けて居る間に時間が過ぎてしまっていた。今、少しだけ後悔している。もったいない時間の使い方をしたなあ、と。

  一切は空であり、一切は色になる。色即是空空即是色だ。一切は時間の経過によって変化する。諸行無常だ。それは言葉の意味の上では理解している。では、何故「勿体無い事をしてしまった」という後悔の言葉が生まれるのか?むしろ、平穏無事に一日が終われたことに感謝の祈りを捧げるべきなのだろうか?否、もし諸行無常を言葉だけでなく体を通して理解しているのなら、後悔も感謝も本来は生まれる筈がない。なぜなら、過去が存在せず、記憶は失われ、現在とはまさに今此処の体のみを指しており、未来は過去と同様に存在しないのだから。

  後悔や感謝の念が図らずも生じてしまうということは、やはり私が悟っていない証であるのだろう。悟ることは、私が現世に居る間は起こらない。罪を感じたり罰を恐れたり神仏に祈ったりというのは、とても世俗的な行いである。といってそうしないでは居られないのが、私の厭らしさ、幼さである。

  時間に苦しめられる。果たして時間とは、本当に存在しないのか?行為と直観の間には無があるとすれば、つまり両者は本質的に同義である。これは行為的直観であり、尚且、直観的行為が同時に生じているのか?では行為と直観と認識の三者の間にも無が存在すらとしたら?絶対的認識と行為的直観/直観的行為とが同値であるのならば?

  こうして夜がまた更けていく。自問自答に終わりはないのだろう。自問自答が終わるとき、それは私が初めて「分かった。」と呟くときな筈だ。それまでは「否、そうでない」と続けるべきだ。諸行無常とは否定の極限的なテーゼだ。諸行無常や無の思想を更に否定する論理を作るのはなかなか難しい。それを言うには、どうしても、唯一解の存在や有の思想を持ち出さねばならないから。

  明日また考えてみよう。