Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

確認中毒

 私には、恐らく多くの方々とは極端に異なる、変わった習性があります。それは「確認」です。確認することは一般的に正しい事のように思われていますが、私にとって確認とは「本当にそうか?」「本当にやったか?」「本当に本当か?」という、果てしない自問自答と、その結果としての確認作業を延々と繰り返してしまう、苦行に近いものです。例えば家を出るときに鍵を掛けたかどうか、もう家から大分離れてしまっていて、時には会社に居るときですらも、気になってどうしようも無くなる。ガスの元栓を締めただろうか、水道は出しっぱなしでないか、火事になっていないか、階下の住人に迷惑を掛けていないだろうか。「不安の種」とも言うべき妄想が拡がり続けて、止まらなくなるのです。そして遂に花が咲くと、もう心は抑えが効かなくなる。仕事中にも関わらず、嘘をついて早引きして、会社を飛び出して家に帰ってしまうことも、一度だけですがありました。自分の目で確認出来て、初めてホッとする。これはやはり他の人にはあまり見られないような性格だろうと思います。

 では家に居れば安心なのか。そうとも限りません。特にインターネット環境が整ってからというもの、電子メールや着信、ネット注文の発送確認の連絡、友人知人からのライン、SNSの更新、そしてこの確認作業の最たるものは、このブログの存在です。

 何かふっと思いついたことがあると、直ぐにこのブログを立ち上げて思いつくままに言葉を並べてみる。そして下書きにして決して失われないように保存して置く。下書きが溜まってきたら、何個か一度に解放する。更新した後も何度も何度も読み返して、誤字脱字がないかチェックする。書き残しがないか、書き過ぎがないか、丁寧語の統一はよいか、漢字の変換は正しいか、変なことを書いていないか、確認します。その後訪問者数を逐一確認します。どのようなタイトルのどのような記事内容ならどれくらの人間が見てくれるのか、気になってくる。といいますのも、100回に1回くらい「大当たり」があるからなんです。一日で50人から100人にまで迫る人間が私の書いた記事を見てくれる。これは他では味わえない無上の喜びです。この記事はどれくらい「伸びる」かなあ、誰か別の人に参照記事として紹介されないかなあ、と幻想に浸るのが好きなんです。

 確認する、チェックする、繰り返し同じ対象を見続ける、書き続ける、思い続ける。こういった強迫的な反復行動は、度が過ぎれば社会性を失いかねます。強迫神経症という病気を知っていますか?先ほど私が披露したような、常軌を逸した確認行動が常態化してしまうとそのような病名が与えられるそうです。こういった苦しみを抱えている患者さんたちと日々接している臨床家の意見が興味深いのは、その種の反復行動が確立する背景には、過去への執着心やトラウマ体験から抜け出せなくなっていることが多いという経験則があるようなのです。これは失敗体験だけでなく成功体験も含まれるそうでして、以前ドキュメンタリー番組で観た、一日に何十回も手を洗わないと気が済まない強迫的な潔癖症に悩まされている男性患者が語っていたことは、9という数字が自分にとってラッキー・ナンバーなのだ、と。なんでも彼(30代後半と見られる)が小学生の時に、くじ引きで9を引いて一等が当たったから、それ以来9を見ると自分に幸運が降りかかる気がして、手を洗うときも、石鹸を9回プッシュして、十本の指を丁寧に9回ずつ洗い、手を流すときも9回。少しでも汚れたと思ったら、家だろうが外だろうが、道端だろうがお構いなしに手を洗いたくなる。だから水の入ったペットボトルだけは手放せない。手の皮が傷んで、赤く腫れているようでした。私は、ああ、何となく分かるなあと思いました。そして、すこし目頭が熱くなったのを覚えています。

 もしかすると、その男性も過去の囚われから抜け出せないのかもしれません。潔癖症だといっても、失礼ですが、御顔は髭だらけで、服装にもあまり気を使っている様子はなく、独り暮らしだというその部屋は、特別に掃除を丁寧している様子も無いのです。彼の異常な行為は、「手を洗う」こと以外全く見受けられないのです。だからこそ、この神経症的な囚われが、容易に誤解されるのでしょう。他人からすれば、「そんなこと、止めればいいじゃん。気にしすぎだよ」と言って終わりです。でも私には彼の気持ちが少しだけ分かるのです。分かる人には、分かる。これは逆差別なんでしょうか。

 確認症候群の患者である私は、この世で一人の「患者」では恐らくない筈です。病と個性が一致するかどうかは、「名付け」が出来るかどうかに懸かっています。仮に世界にたった一人しかこの病に掛かっていないことが判明すれば、これは僕の「個性」と言ってよいでしょう。(話が逸れますが、最近、ヨーロッパで一人の男が40年近く毎日献血をしたことで国から表彰されたのが話題になっていました。その男の人の血液は、なんでも特別な抗体を持っているそうでして、彼の血液のお陰で何百万人の赤ちゃんとそのお母さんが救われたそうです。彼こそ、真の自己理解と真の自己実現の両方が社会的な大成功に繋がった稀有な人物なんだろうと、そのニュースを観て思いました。生きているだけで、血を与えることが社会に役立つなんて、素晴らしいなあと素直に思いました。)でも、実際そんなことは無いのです。地球上の70億人のうちの数%の人たち、つまり数億人の人たちが私と同じ症状で苦しんでいるのです。これは平凡な病なのです。だからこそ、この強迫神経症という「名付け」が自分の中で認められれば、それは僕にとって大きな一歩の筈です。なぜならそれは社会的な認知を、自己の中に積極的に取り入れることに成功したことを意味しているからです。抑うつ症や、適応障害、軽度の発達障害自閉症スペクトラム障害といった、本人の中では「個性」「人格」「傾向性」として自己認知している部分を、社会的に文脈化、位置づけ、参画させるためには、正しいとされる病気の認知とそれを支える身近な他者が必要不可欠です。

 「なぜ自分はこうなのだろう」と不安に思って、色々と考えてきました。アメリカ黒人の苦しみは僕の苦しみと似ているなと思って、彼らの救いの拠り所としてのキリスト教の理解に努めたこともありました。自分の生まれを探ろうと思い、自分を産んだと思われる(というのも記憶がありませんから、確証は今のところないのです。99.99%産みの親だとは思いますが、写真などでも確認できますが、私個人の記憶は3歳くらいからしかないので、分かりません)両親の子どもの頃の話、両親の更に上の両親、祖父母、曾祖父母の話、遠い親戚の話を聞き纏めてみたこともあります。母の実家の家系図を直接見せてもらったこともありました。それで何か分かった訳ではありません。落ち着きが生まれた、というだけです。自分と似たようなことを考えている年長者は誰だろう、と思って、講演会や、テレビ討論会、対話本、ブログ、私塾、ブロマガ、定期刊行物なども探してみました。この人に決めた!と確信に至る事はなかったですが、またそれは己に禁じていたことでもありましたが、探していく中で、様々な老若男女の研究者、メディアプレイヤー(情報発信者という意味で)、政治関係者の方たちの存在を知りました。保守思想も革新的活動もアナキストも孤独主義者も、カント哲学も実存哲学も解釈学も物語論も、脳機能学的な認知論も仏教哲学も、様々な精神療法も薬効も、フロイトユングもV.E.フランクルも、量子論SF小説の面白さも、近代人という概念も、日本語の言霊という概念も、編集工学や博物学やジャーナリズムの精神も、構想力なる三木清の提唱する生き方も、西部幾多郎の提唱する行為的直観や善の研究も、小林秀雄の魂の考え方や木田元の翻訳研究も、デカルト親鸞の類似やら、ベルグソンやら、パスカルやら、ヒュームやら、あれもこれも誰もそれも、彼彼女らの表現活動が無ければ私には遂に知らされ事はなかったでしょう。自己理解を深めようとする中で、現在の情報社会の恩恵を十二分に受けたのが、私のような神経症患者だったと言っても、決して過言ではありません。

 果たして、情報は武器にもなると同時に己を傷つける刃にもなります。情報という刃で自己を傷つけ、まるでリスト・カッターが快感を求めてそうするように、自己破壊と情報解釈が無限の連鎖を産んでしまうこともあります。大量の情報の独占と行為の独断は、結果として己を傷つけてしまう恐れがあります。そのことを知れただけでも、一歩だけ前に進めたのかもしれません。