Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

個人的働き方改革

 唐突な告白で申し訳ないですが、ブログを書き始める前にいつも思うことを述べさせてください。私は、これで最後の記事だ!と思って毎回書きたいのです。全ての投稿が、自分の遺志となるように。更に欲張れば、軽薄な気持ちで遺書を書きたい。発見や法則や美しい表象を実現したいというような、そんな大袈裟な気持ちではなくて、今朝の朝食はご飯とみそ汁と卵焼きでした、くらいの気持ちで書きたい。それくらい、当たり前のこと、毎日のこと、一瞬頭の隅の方を横切ったようなものを書きたい。だから、このブログが商品紹介や、現代批評や、詩作発表の場に為るようなことは多分無いだろうと思います。

 閑話休題クラウド・ワークスでフリー・ライターとして登録して早一週間。まだ本格的に始動したわけではないですし、自分の希望に合った仕事も見つかっていません。自分が唯一自信を持って書ける対象は、自分自身のことと、あとはラップ音楽のこと位しかないのです。車にも詳しくないし、敬語のマナーについてもしらないので、せっかく紹介してくれた仕事もスルーしたままになっています。ほんのり気づいたことは、そうか、物書きに為るには、取材する手筈を整えることがまずは必要だな、という事です。立花隆さんの御著書の中で、氏が田中角栄政権の批判を始める前にまずやったことは、図書館や古書店に行って、自分の背丈と同じくらいの書類と書籍を買いあさって通読することだったそうです。物書きになるまえに、物読みにならないと行けない。これが立花隆さんの主張でした。

 なるほど、と思いました。そして、それを確実にするためには、書籍や書物、文書、ひとまとめに「情報」としておくと、情報倉庫のようなところで自由に出入りできるための「許可証」を探すことが必要になるでしょう。例えば国会図書館の司書になったり、大きな大学図書館シンクタンクで働いたり、世界中の情報ソースを整理整頓して並べてあるような「空間」の存在を知り、またはそういった機関で働いている実在する人間と交流を持ち、情報空間と現実空間をリンクさせるようなシステムに参画することが必要になってくるはずです。

 要するに、物書きに為るのなら、それに見合った体力と知力と精神力がまず必要で(一言で纏めれば、魂の力、霊的な力とすら言えるのかも知れません。ここら辺のアニミズム的な話は、以前からずっと主題として書いてきたのでご興味のおありの方はご覧になってください。)、次に資産や人的コネクションや社会的肩書も必要になってくるので、つまり自分だけではどうしようもないのでいろんな人たちの協力体制を見つけましょう、っていうことなんでしょう。教職を離れて別の就職先を見つけた友人は、「何がしたいかじゃなくて、誰と一緒に働きたいかで決めた」と言っていました。恐らく、個人に於ける働き方改革とはそういう事なんだろうと思います。

 ぼくはだれとなにがしたいんだろう。今まで考えたことも無かったなあ。最近は想定の範囲外のことばかり起きて、全然何から手を付けたらいいのか分かりません。論理に縋らず、言葉に託さない、もっと実りのある、緊張感と解放感のバランスの取れた人生を送れたらどれだけ幸せだろうに。

 魂を賭けて己を追い求める生き方は、極論すれば虚無との闘いと同義なんだろうと思います。探求心は罪の根源に為り得るからです。私にとって魂とは、実在しない、紙の上にだけ存在するような曖昧なもの、文字と文字の間に浮かび上がる模様です。自己存在を言葉に託して、論理を追い求めて、魂の美しさを体現するというような態度も、それは私がここ数ヶ月間延々と考えてきたことですが、結論としてはそれもやはり自己の本分を超えた欲張り過ぎな態度なんだろうと思います。知識欲も表現欲も実現欲すらも、私が私である以上、あやふやで頼りない色や形なので、時間の推移によってその本質が失われていくのだろうと思います。そしてもし仮に明日死ぬとすれば、そういった移ろいやすいものを追い求めていた己をきっと反省するに違いないのです。そうであるならば、もうそういった形而上学を真剣に追い求めることも止めよう。実現不可能な仮定法で生きていくのは、現実が辛くなるだけだ。もはや、問いも答も要らない。魂に殉じることも止めて、その代りに判断を一時中止するためのブレーキを用意しておこう。真理や秩序や審美さを求めず、尚、退屈さと凡庸さと鈍重さを保ちつつ、時に出会う発見や回顧を掴んで離さないためには心の姿勢だけではまだ足りない。極論を言えば、何をしてもどうしたって空しさだけは残る。ドーナツの穴のようにぽっかりと心の中心に虚無感が顔を出すことをいつも承知しながら、それでも一瞬一瞬の状況の変化を見つめて何かを掴む為には、己の心だけを見つめていても解決しないでしょう。心の矛盾を解決するのは、心だけでは無理そうです。体の使い方、声の出し方、歩き方。そういった体の問題にシフトして行くことは心の問題の解決策の一つかも知れません。

  しかしながら、心も体も精神もいずれは朽ち果てて死んでしまいます。魂という名の言葉や魂を覚えているはずの記憶も魂を刻んだ造形も、永遠とも思える時間の船に乗せられれば、己を保持し続けることは不可能に限りなく近づくでしょう。それでは永遠普遍の真実を早々に諦めてしまったとしても、如何にして不完全であまり美しくない自分の身体を持って、この世を諦める「振り」をしたまま生きながらえる、老いさらばえることが可能なんでしょうか。諦めるとは、明らめる、理解するという意味もあるそうです。逆説的な言い方になりますが、真に理解するとは、理解する行為自体を一度止めることから始まるのかもしれません。一度、真剣に生きることを止めてみる。すると、何か人生を真正面から対峙できるのかも知れません。

 言葉に託さず、論理に縋らず、善なるものに己の魂を賭けないような生き方。これはつまり、色即是空・空即是色・諸行無常の言い換えに過ぎません。言い換えただけに過ぎない私の言葉に、果たして価値はあるのか甚だ疑問です。多分少しは在るのかもしれません。どちらでも良いのです。当面の結論は、「あまり気にするな、どちらでも良い。」と判断中止を求めるだけです。