Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

ヒロシマの忠誠心

 保守とは中卒のヤンキー、革新とは大学生のオタク、実存とは14歳のひきこもり少年のことである。つまり、誰も大人に為れないまま、過去を引き摺りながら生きているか弱い存在なのだ。もっと分かりやすくいうと、保守とは「オレ」であり、革新とは「私」であり、実存とは「ぼく」だ。どいつもこいつも、子どもっぽさが抜けきらない。

 評論家とは蔑称に過ぎにない。実際は、大学の講師、著述家、講演家、テレビタレント、ラジオDJなのであって、職業としての「評論家」など存在しようがない。それは自己認知の在り様である。社会的認知では決してあり得ない。「保守論客」、「革新的指導者」、「実存的不安を抱えた現存在」と自己規定する者は、いつもそれが自己欺瞞であることを認めなければ行けないだろう。人間はそんなに単純な存在じゃないだろう、という了解があるからだ。自己認知はあくまで個人の内的世界に留めて置こうとするのが、日本的価値観のような気もする。自己規定を高らかに謳い上げるのは、どこか西欧かぶれに聞こえる。そうは言ってもお前ら、明らかに其処ら辺の日本人みたいな顔面がくっついているじゃないか、と。格好と肩書だけは一丁前だけど、全然実効性が伴っていないじゃないのか、と。

 日本的風土において、名付け行為は御上の仕事である。肩書にしても、地位名誉にしても、その最高規範は天皇陛下である。下々の民衆は、天皇陛下の絶対規範の下では、等しく下僕である。これは私が素直に感じる日本人的な平均性である。だからこそ、御上とは、政府でもなければ、霞ヶ関でもなく、私人では無論あり得ず、ただ天皇皇后両陛下を頂点とした皇室なんだろうと思う。私は別に右翼でも保守主義者でもなければ、特定の信仰を守っているわけでもない。父の実家は浄土真宗本願寺派で、母の実家は神道である。それは直接、間接的に私の信条形成に影響を及ぼしているに違いないが、しかしながら、家を離れて一人暮らしを始めて1年後に起きた3.11以降、より明確に感じたことは、私はまず一個の日本人であり天皇陛下の赤子なんだなあという淡い感動であった。初めて天皇陛下の眼差しを感じた。勿論、テレビのスクリーン越しであったが、それでも尚、私は天皇陛下の言葉を生まれて始めて首を垂れて拝聴、拝読し、素直な気持ちで、ホッとした、安心したという経験が確かにあったような気がする。

 脆弱な自己をより強固な(といっても主に西洋近代から間接的に輸入された価値観によって補強されたに過ぎない)自己で新たに規定するよりも、皇室という制度設計とその絶え間ない保持によって、2500年以上に渡って日本人全体が直接に規定されて来たという歴史的事実の方が、はるかに信頼できるなあと素直に思う。自己規定の枠組みを外せば、自分が無知蒙昧であると率直に認められると同時に、無知ではあるが無ではないと認めてくれる確かな存在者としての皇室の有難さも、なお一層身に沁みて来る。

 近代的自我などという欧米的な概念を未だに私が正面から受容できないのは、皇室典範という侵せざるを侵された恥辱、つまり日本国憲法などという「出来損ない」の「一夜漬けの」成文法によって「アメリカさん」から制定を強制された国家的恥辱を今でも尚忘れたくないからだ。アメリカへの反抗心として、近代的自我なる「ふざけた」概念など斥けて、日本国憲法なる「あやふやな」概念の集合も知ったような顔だけはするけれども、私の心の奥底ではあの恥辱忘れまじと臥薪嘗胆しているのかもしれにゃい。

 最後に一言付しておくと、私は広島県出身である。アメリカと広島。それは決して交わることの出来ない怨恨であるのか。少なくとも80年では忘れることは出来ないように思う。大統領が一回来たくらいでは、許されるはずも無い。それは当然のことだ。実際のところは、忘れかけるのに後400年くらいは必要かなと思う。これは広島県民と他の県民との時間の感覚の相違だろうか。未だに時計の針が8:15(正確には昭和20年8月6日午前8時15分)から動いていない人間も、しかしながら、広島には居るのだ。一般的に言ってアメリカ人は記憶するのが下手なので、こちらがまだ根に持っているのを「馬鹿だ」とか「いつまで同じこと言ってんだ」「時代錯誤も甚だしい」と不平を言うかもしれない。それも仕方のないことかもしれない。

 ヒロシマナガサキ、そしてフクシマ。負の遺産はこれからも作られ続けるだろう。遺産を相続するのが、私の役目であるのか。それも明確には分からない。何となくそう感じるだけである。評論家になるよりも歴史の相続人になる方が、少しはマシかなと思うだけである。