Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

仏教的結婚観

  「結婚なんて相手を選ばなければ誰でもできるのよ。」今朝の母との会話は何故か結婚の話題だった。母の親戚に、御世辞にも綺麗とは言えない人が居り、その人が言った名言らしい。確かにアンタが結婚できるんだから誰でも出来るな、と母はその時思ったそう。最高の条件を満たす人間だけしか相手にしない、という姿勢がそもそもの間違いで、結婚を目的とするなら相手など最低限度の条件を満たしているかどうかで決めるべきだ。これが母の親戚の考え方だそうだ。

  結婚に限らず、どんな人付き合いに於いても、此方の好みや条件を多くすればするだけ、付き合える人間は限られる。仮にそういう狭い人間関係のことを「親友」と呼んだり、「何でも話せる心の友」と呼んだりするのならば、それは言葉のチョイスを誤っている。双方の条件が偶然に一致しただけの結果に過ぎないので、「互いの好みに限りなく符合する赤の他人」と呼ぶべきだろう。私の場合、親友と呼べる人間とは、自分に絶対的に欠けている特質を持っていたり、実現したい希望を既に実現してしまっている経験を持っていたり、もしくは同質の希望を共有していたりするような人間の事だ。そういう人間と付き合う事で、己の満たされない欲求を満たしているのだろうか。仮にそうだとすれば、彼や彼女は親友でも何でもなく、ただのマネキン人形や映画の主人公に過ぎなくなってしまう。過度に理想化する態度は私の反省すべき悪癖である。

  結婚相手の話に戻すと、最適の結婚相手の選び方とは、目の前に居る人間こそ結婚相手に最も相応しい筈だと思い込む態度のことなのかも知れない。渋谷のスクランブル交差点の真ん中に立って、男でも女でもいい、偶々すれ違った人こそが真の親友であり生涯の伴侶であった筈の人間なのだ。そう思い込む事は、論理的には可能である。ちなみに論理的とは仏教的と殆ど同義である。一切合切が空なのだから、何を前提にしても構わないのである。

  しかし現実的に付き合う人間とは、狭い交遊関係の中からドングリの背比べのように、似たり寄ったりの中から選ぶのだ。これは八百屋や魚屋でその日の新鮮な野菜や魚を選ぶのと同じ要領である。目利きが出来ないと競り師に成れないのと同じく、その真なる人格を見極める眼を持たねばなるまい。己の好き嫌いや、相手の肩書きや、顔や体の造形、趣味や性格の一致だけで選んでいては目利きが出来ない。いずれにしても限られた選択肢の中から選ぶのだから、悪いのを掴まされる可能性は何時だって付き纏うのであって、しのごの言っても始まらない。

  お買い得や特売品の広告に踊らされないプロの主婦のような確かな目利きが、人付き合いに於いても必須なのは言うまでもない。問題は、しかしながら、より良い品を選ぶ行為そのものが全く空しいことだという認識の前提に立ったときに、それでも尚他者を信じることができるのかという問いだ。仏教的な前世の因縁を信じるか信じないかは本人次第だが、私は余り前世や来世などの概念に関心を持たないので、この人で良かったのかを悩み続けることしか出来そうにない。否、相手が一体自分のどんなところを買ってくれているのかを自問自答するしかないのか。こうした答えの出ない問いを保持する態度も、仏教的な救いなのかも知れないが。