Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

読むために書き、書くために読む

 何の為に本を読むのか。読む意味や目的や意図を想定しながら読むような読み方とは、全然自然ではないのだろう。本屋に行って本棚から抜き取って、目の前に置いて表紙を観察して、中身をパラパラとめくっていき、著者欄を眺めてみて、裏表紙の値段を見て仰天したり、迷ったり、即座に買ったりする。こうした一連の出会いの中で、買い手の心の中には「如何にしてこの本を読むか」という目論見は既に終了しているのだ。後はどのようにしてその本の購入費用を捻出しようか、本棚を買うのが先か本を買うのが先か、そういった経済的事情について悩む。または、この本をレジに持っていったら店員にどんな顔をされるだろう、家族がこんな本を自分の部屋で見つけたらどんな気持ちがするだろうという政治的事情について悩む。はたまた、本を買うことを忘れて、その本屋そのものに興味が湧いたり、なかなか風情のある店だなあと思って、この本をどんな喫茶店で読もうかワクワクする。これはつまり遊びとしての本を読む行為である。

 私にとって本を買うための大きな目的は、本を書くためである。何の本を書くのか未だ決まってない。しかしながら、既に執筆は始まっている。どのようにして出版会社と交渉し、どのような装丁で店頭に並ぶかも未定である。しかし、私の頭ではあと5年か、ないし3年以内に処女作を出版する予定である。つまり、本を買って読むのは、ライバルの研究の為である。どんな本が「よい」本であり、「まあまあ」の本であり、「わるい」本なのかを、市場調査しているのだ。どんなフォントを使っているのだろう。紙の材質はどうだろう。表紙のイラストは誰が書いているのだろう。小さな出版社でも雰囲気のよいところは一杯あるな。そういった、謂わば「編集者」マインドで本を眺めるのが好きなのだ。私ならこんな誤植はしない、とか、折り目で改行したら読みにくいな、とか。そういった「再編集」の作業が好きなのだ。

 自分の文章を書くとは、面白い試みである。ではなぜ書くのか。それは、新しい本を読む為に書くのである。書けば書くほど、己の筆力の至らなさを思い知り、より素晴らしい本を読む。そうして、「よし、今度は良い文章を書こう。」と奮起する。これはつまり循環である。読書し書読し、また読書する。そうやって永遠の読書というテーマを人間という動物は続けてきた。だからこそ「言語的動物」という定義も肯けるのだ。独りの人間の一生を賭けて書かれた文章を、後世の人間が発見し、享受し、味わい、そしてバケツリレーのように本質を溢さないように文章にして未来の人間に託す。そうやって味わい尽くされた文章は、聖典、経典、教典、古典などと呼ばれる。これを人間の営みと見做すのが、人文学の奥深さなんだろうと思う。