Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

元気と幸福

 スマホを持ってから、定額制と通信制限、そしてデータ通信をギガバイト毎に買う、という事が当たり前になった。嘗てのガラケー時代は、「使いたい放題」とか「かけ放題」という宣伝文句に踊らされて、日夜ネットに常時接続していた。当時のケータイ会社もインターネット会社も、ある程度許容範囲が分かっていたのだろう。今のようにスマホゲームやら、オンラインゲームやら、高画質動画視聴といった大量にデータを扱うようになると、利用者も毎月決まった用量で我慢するようにならざるを得ない。それを超えると、追加料金が発生したり、極端にデータ通信速度が遅くなったりする。格安スマホが流行する背景には、恐らく過去にガラケーを使っていた30代から40代の世代で、しかも「使いたい放題・かけ放題プラン」に乗せられた名残を引き摺っているのだろう。かく言う私もその一人なので、最近格安ケータイプランに変更し、家のネットとケータイのネットの両方を使うことで、殆ど「使いたい放題」状態を維持している。

 「かけ放題」という言葉の背後に潜むのは、何か恐ろしい怪物の様な気がする。いくらでも、24時間、365日、何十年も使っていいんだよ、毎日エロ動画を観て抜いてくださいと言われているようなものだ。エロでグロで馬鹿みたいな動画で騒いでください。地上波では絶対流せない、過激で、目をそむけたくなるような世界の現実を見て、興奮してくださいと脅迫されている。もしくは、毎日世界中の情報を好きなだけダウンロードしてくださいね、どんどん賢くなりましょう、スマートに、知的に、クールな、アーヴァン・ライフスタイルを選びましょう。そんなことを言われている気がする。要するにだ。使いたい放題という宣伝文句の裏には、欲求の無限連鎖があると思う。

 無限の欲求連鎖は、しかしながら、いとも簡単に抜け出せることが出来る。それが「通信速度の制限」である。常時接続するためには、追加料金を支払わないと行けなくなった。そのお金を何処からか持ってこないといけない。その時ハタと気付かされるのは、俺は一体何に絡めとられていたのだろう、というネット行為そのものへの反省と直観だ。ネットを使っていて楽しかった。でもそれはこんな簡単に、お金が払えなくなるというたったそれだけのことで、蜃気楼のように立ち消えてしまうのか。そして、だんだんと現実感が蘇ってくる。過去に殺したはずの現実感が。

 現実感もまた別種の怪物である。少し思いつくままに並べてみよう。例えば、オトナ。社会。世間。それらを代表するのは、父親。母親。弟。親戚。ツテ。トモダチ。社会で生きていくためには、まず受験。資格。学校。先生。予備校。学歴。就活。採用試験。働き始めれば、同期。婚活。収入。源泉徴収。確定申告。働くのが辛くなれば、辞令。通院歴。担当医。診断書。また働き始めれば、履歴書。通知書。国民健康保険の支払い。国民年金の支払い。市県民税の支払い。こういったものが、全て現実感そのものである。目をそむけたくなる。「面倒だな」と思うことの全て。あのリアルな感覚が、ネットから半強制的に退会させられることで、再び還ってくるのだ。

 ゾンビのように生き返った現実感と、絶えず欲求を満たそうとして待ち構えるネットの非現実感。この双方から切り離される方法を考えるに、私は、宇宙のことを考えた。次に、自分の死の事や、生まれる前の事。その次に、言語世界に留まり続けるための現実的手段としての作家や翻訳家、研究者になる事。そして最期に行き着いたのは、無の思想と呼ばれる、初期仏教的な言葉と論理であった。「諸行無常」という概念とも呼べない概念。色即是空・空即是色という虚無の極致。それに気づいたとき、虚無を乗り越えられそうな気持がした。虚無の構造が分かった気がしたのだ。構造さえ分かってしまえば、後は工夫次第だ。だから今はとても精神的に落ち着ているのだろう。

 社会や世間という処で感じるリアルな感覚も、ネットや言語空間で味わう別種のリアルな感覚も、夜独りになって考えることも、昼間に河川敷で考えることも、寝ている時に見る夢も、記憶も忘却も、一切は空である。これは、救いであり、救いでない。コインの裏表の関係にも似ているが、実はこれは私の本当の気持ちを表す比喩ではない。コインの表には、「希望」の二文字が刻印されている。このコインはしかしながら、余りも巨大で重すぎるためにその裏を見ることが出来ない。X線も通さない。何がこの裏に書かれているのかは、決して見えないはずだ。「絶望」と書かれているかもしれない。何も書かれていないのかもしれない。否、今見えている「希望」という文字も、己の指でなぞった溝かもしれない。初めは何も書かれていなくて、自分で勝手に書いたのを勘違いしているのかもしれない。

 お分りだろうか。つまり、私は、何もかも可視化したい気持ちが抑えられず、その不可能性と、不確実性と、不確定性を心の何処かで信じていなかった。しかし、やはり信じざるを得ない状況に立たされて、諦めてしまった。諦めた瞬間に、周囲に薄明かりが差した。夜明けの様な気持ちだから、希望に満ちている。

 今日言いたいこと。私は今日、元気で幸福でした。以上。