Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

欲望は満たせない

  悟ったような事を述べさせて頂くと、如何なる欲望も欲望という形態である限り、決して満たされる事はない。欲望とはなにか。感性に根差す自由への欲望である。または、理性からの要請としての認識への欲望である。または、知性の純粋なる自己と目的の合一した探究への欲望である。幾らもある欲望の範疇を丁寧に図式化定式化したとしても、しかしながら、欲望そのものの定義が産まれることは無い。欲望とは生きている自己そのものであるからだ。

  己が己である以上、決して他者に為ることが出来ないのと同様に、一個の人間の持つ感性や理性や知性には限界値が想定される。生命が無限でないのと全く同様に、我々の善に対する態度も徹底することは不可能で、美の造形や表象に対する観察眼も徹底することは不可能で、学問的な真実の普遍性を認めるための、認識の目を徹底して持つこともまた不可能である。感性はいつも非合理で不条理で不自由である。理性はいつも不徹底で未完成で不誠実である。知性に置いて確実などあり得ない。つまり不可知論である。

  欲望について語るとき、私は悟った「ような」話し方を選んだが、それは読み手への不誠実な態度である。しかしながら、不可知論の立場から申せば、私は、不誠実な態度を敢えて選択することによって誠実さを演出しているとすら言えるのだ。行為に於ける生真面目さと遊びの両価値を認めているのだ。どんな行為の選択も、不可知論から行けば、どっちでもいいというのが結論にならざるを得ない。これでは議論や歴史や言葉の意味や価値が全く失われてしまうじゃないか。

  欲望を満たす方法とは、不可知論から行けば、存在しない。絶えず私たちは、己の欲望に突き動かされ、選択を迫られ、自由を奪われ、誠実な議論すら出来ず、何も悟らないままに死んでいくのだろう。方法論の虚しさとは、言葉の虚しさそのものだ。逆かもしれない。言葉が初めから空しい存在だから、どんな方法論も虚しく響くのだろう。

  言葉と論理を尽くして表現された定義や法則も、時間の経過によってその輝きや価値が減じられてしまう。言葉も論理も何時かは消えてなくなる。存在と非存在の間を往来する。歴史も文化も生命も地球も宇宙も、何時かは滅びる事が既に決まっている。此ばかりは、僕の手に負えない。

  今日はもう寝る。