Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

私塾という実践倫理

 私塾を開きたいと考え始めたのは、仕事を辞めて少し経ってからだった。学校教育に辟易して、もう教育はこれくらいにして、自分の為だけに生きてみようかなと思い始めた結果、じゃあ自分が塾長に為ればいいじゃないと思い始めた。私立学校の建学の精神は嘘っぱちであり、文部科学省は信頼足らん。と言いつつ、手前の浅知恵と薄っぺらい経験だけで子どもの前に立つのは申し訳ない。そんなこんなで、また再び塾講師のアルバイトをやり始めて、やっぱり子供というのは希望の同義語なんだなあと感じる。そう、こどもとは希望。これだけは譲れない価値観だ。では、己の無力さを知りつつも、塾長として子供を教え、そして経営者としても、地域住民としても、成り立たせていくにはどうすればいいのか。そんなことを考えているうちに、何処で塾を建てるのかという当然の疑問が湧いてきた。そして、それは南三陸だろうと思った。

 南三陸の現状について私はまだあまり知らない。しかしながら、7年と5か月前に何が起きて、その後、日本政府や企業者が何をしてきたのかについては良く知っている。つまり、何もしていないということだ。何も、一切やっていない。東北は既に見捨てられた土地である。そう言い切っていいと思う。では誰が見捨てたのか。それは、私である。東北に住んでいない日本人たちが見捨てたのだ。だから東北の人たちに、東北以外の人間は首を垂れるべきであり、恥じらいを覚えるべきであり、罪悪感を感じるべきである。その罪悪感に耐えきれなくて、遂に仕事を辞めて東北に行ってもよいと思う。

 絶望的な観測が最も現実味を帯びてくるのは、現在の日本の浮かれ騒ぎを見ていれば分る。馬鹿なニュースを毎日やっている。だからニュースは見ない。見なくても何が起きているか知っているからだ。馬鹿なニュースをやっているだけだ。だから、私はオールド・メディアを日付と天気予報以外信頼しない。といいつつ、インディペンデント・メディアの持つ思想的偏向性も無視できないので、自分で情報ソースを確かめる迄は基本的に信頼しない。不信をベースに生きていると、勿論辛い。それは己の無力感を絶えず感じているからである。この無力感や情けなさはいかにして解消されるのか。虚無感はいかにして解消されるのか。それは、諸行無常の価値観とそれに即した実践であるだろう。実践とは、先ほど述べた通り、南三陸で私塾を開くという選択に他ならない。

 恐らく、これから日本政府は、東北の被災地を全て税金で買い取って、国有地にしてしまって、民間人の自由な産業を奪っていくだろうと思う。勿論、負の遺産としての福島第一原発も、メルト・ダウンした高炉も、買い取ってしまうだろう。チェルノブイリ原発のような観光化を、ゲンロン代表の東浩紀氏は推進しているが、一人の私人が背負うのにはあまりに重責である。成功するかしないかは、運次第だろうと思う。そして、運次第であるがゆえに、現状維持のままならば、いつかは失敗するだろうと思う。マーフィーの法則など馬鹿馬鹿しくて引用すらしたくないが、事の一面は衝いていると思う。失敗する可能性があるならば、いつかは失敗する。まあ、そんな所だろう。それくらい、人間の営みとは脆弱なものだ。

 私の私塾経営も、挑戦である限り、失敗するに決まっている。仮に成功したとしても、自分の塾のお陰で子どもの人格がよくなったかどうかなど、私が生きている間は分からない。恐らく、迷惑を掛けることもあるだろう。いや、きっと迷惑になるだけだろう。それでも、じゃあ、失敗すると分かりつつこのまま放置しておくんですか、と自問すれば、そうはしない、やる、と自答するより他はない。

 論理的帰結として、やる。私など最初から存在しなかったのだから、やってもやらなくても結論は同じ、空である筈だ。色即是空・空即是色。無の思想から、南三陸へ。それは僕の中で、一つの契機になるアイディアだった。