Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

書き手の「私」から話し手の「私」へ

 なにも存在しないし、なにも感知できない。それは私の存在を無くすことが遂に完成するという事だ。しかしながら、文化のことを考えるときに、私は否応なく存在が証明されてしまう。住民票や戸籍謄本を取り寄せれば、自分が何年何月何日の、日本のどこに出生し、父と母の名前と性別、生年月日、住所が書かれてある。または、市民的なサァーヴィスを享受する際にも、自己証明書として自動車の運転免許証や学生証、パスポート、公共料金の支払い書などが必要になる。政府機関の発行する特別な紙に書いてある文字や写真が、私の存在証明である。それはひょっとすれば作り物じゃないかという疑いは持ってはいけない前提になっている。それを一度持ち出せば、社会生活は成り立たなくなるだろう。

 自分が幾ら、「俺は存在しないのかもしれない!」と叫び、その無根拠な存在を証明したとしても、誰からも相手にされない筈である。そう叫んでいるお前はじゃあ何者なんだ?お前は一体誰の非・存在を証明したというのか?私は尚も叫ぶだろう。自己認識の不確実性を証明したのだ。認識する己すらも不確定で頼りない存在なのだ。だからこそ、私はこの綱渡りを見事に闊歩していきたいのだ。誰かが叫ぶ。綱渡りが成功する確率は?私は答える。確率など最初から存在しない、と。なぜなら私たちは全員生まれながらにして、死に向かって各々の歩幅で歩いているからだ、と。ところでお前の綱渡りは、それほどまでに難しいのか?お前よりももっと困難な曲芸を強いられている人間も居るではないか?彼らの苦しみを想えば、お前の苦しみなど無に等しい。私は大声で叫ぶ。黙れ!お前に俺の何が分るというのだ。お前のその平凡な頭では決して理解できまいが、私は私の苦悩をたった一人で受け止めてきたのだ。お前がお前の快楽を、お前だけで貪ってきたように、私は私の苦しみを、私だけで背負ってきたのである。だから、私にお前のその貧弱な精神力を批判する権利が無いのと同じくらい、お前は私の抱える困難さと忍耐強さを推し量る権利が無いのである!慎め、この愚鈍ども!!!

 空想とは面白い。最初、「私」と形容された人物は書き手の「私」と殆ど同一であったが、空想の流れに乗って、だんだんと私自身から離れてしまう。「私」は書き手ではなくなり、話し手としての人格を持ち始め、遂に書き手の「私」と対峙するくらい大きな存在になる。そして、書き手の「私」は、話し手の「私」との闘いに疲れ果てて、敗北のEnterキーを叩いて改行するより他無い。ところであいつは一体誰なんだ?あの雄弁で我が儘なあいつは果たして俺なのだろうか?そう思いながらその日のブログを閉じる。

 客観的になりたいと思っていたけれど、客観的になればなるほど、主観が甦ってくるので面白い。主観と客観の間の、間主観性くらいがちょうどいいのかもしれない。