Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

マッスル北村と三島由紀夫

  肉体の限界、精神力の限界、認識の限界を越える。それがマッスル北村の思想と実践だった。日本人離れしたバルクに、それを担保する並外れたトレーニングと食事の徹底、東大に二浪の末合格するも殆ど出席せず、除籍になった後にもう一度再受験して東京医科歯科大学に一発で受かるほどの知力。しかし自分は親不孝者であると定義し、どこまでも首を垂れて、謙虚さを極める。私の知りうる限り、最もストイックな人間である。

  恐らく、誰もこんな真似は出来ないので目指さない方が身の為である。彼は完璧主義を越えて、遂に完璧者になってしまった人間だから。肉体と精神の限界を超えてしまったのだ。彼の死因は餓死であった。余りにも減量し過ぎたのだ。これは尋常でない。パフォーマンスの為に食欲を完全に絶ってしまって、トレーニングを止めなかったのだから。鏡の前に写る自分を見て、北村は死に際何を思ったのだろうか。凡庸なわたしが想像するに、心優しい彼のことだから、親に迷惑を掛けてしまったな、大会に出られなくて残念だな、でも僕にはこの道しか無かったんだ。そんな事を考えていたのかもしれない。

  昨今流行しているゴールドジムホットヨガやライザップの根本には、90年代の日本のボディビル創成期に於けるマッスル北村のようなストイックの神様のような人達がわんさか居るのだろう。日本人と筋肉。古来の武士道の鍛練と、現在のジムでのハード・トレーニングの親和性の根本には、限界を突破したいという日本人の強い欲望が在るのだろうか。三島由紀夫の座右の書であった「葉隠」の真髄は、所謂「武士道とは死ぬことと見つけたり」という余りにも有名な一文ではない。少し三島の文章を引用してみよう。

  ・・・しかし、この人生がいつも死に直面し、一瞬一瞬にしか真実がないとすれば、時の経過というものは、重んずるに足らないのである。重んずるに足らないからこそ、その夢のような十五年間を毎日毎日これが最後と思って生きていくうちには、何ものかが蓄積されて、一瞬一瞬、一日一日の過去の蓄積が、もののご用に立つときがくるのである。これが「葉隠」の説いている生の哲学の根本理念である。(「葉隠入門」昭和四十二年九月光文社より刊行。本文は昭和五十八年四月発行の新潮文庫版の39項より抜粋)

  ストイックの精神と武士道精神の両方について、私は余り知らないのであるが、マッスル北村と三島由紀夫を並べたときに、どこか重なるような、重ならないような、訳の分からない気持ちになってくる。三島も身体を鍛えたが、それはコンプレックスの裏返しだったと言う人も居る。マッスル北村は本当は筋肉増強剤を使っていた、その証拠にお腹が妊婦のように膨れている。そうやって彼らを貶めるのに躍起になる輩も居るには居るのだ。私の直観に依れば、両者は稀に見る生真面目な性格の持ち主で、究極の未来志向、つまり、善く死ぬことを達成した、立派な人傑であるという事だ。彼らのような男らしさは、残念ながら私にはない。しかし、やはり何処か憧れてしまう気持ちは抑えるのが難しい。こういった気持ちを尊敬と呼ぶのだろうか。