Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。Peace.

仏教者の決意

 本を読むときに私が悩んでしまうのは、何から手を付ければよいのかという優先順位の悩みである。あれもいいこれもいい。目移りしてしまうのは、要するに自信と経験が無いのだ。自分の中の軸がブレているのだろう。若しくは、自分の中に複数の軸があり、いずれの軸を選ぶべきかを悩んでいるのだろうか。そうだとすれば、自己が分裂していることを意味するはずだ。精神分裂症の様相である。しかし精神を纏めている体は一つである。そこに矛盾が生じてしまい悩み苦しむ。だからこそ認識の出発点を、身体の限界点や人生の有限性から始めた方が手っ取り早い。自分の暮らす生活に制限を設けたほうが楽だ。どこまでも制限のない、(英語ではThe Sky's the Limit「限界はない」と言うらしいけど)絶対的な空を求めようとするから苦しいのだ。なぜなら現実世界では悟れないことを何となく知っているからだ。例えば西洋世界では神の存在として、例えば日本では皇室制度として、例えば仏教者に於いては諸行無常として想定されている、言葉と論理を超越した絶対性の観念。どれを選ぶかは自由だが、私は仏教を選んだだけだ。今私は悩んだときにこう思うことにしている。自信のなさや経験の不足感も空であり、また精神分裂症的な性格も空であり、矛盾に苦しんでいる自己も空である。苦しんでいる振りをしているだけで、本当は苦しんでいない。不足感も本当は充足感の裏返しであり、自信のなさは謙虚さの裏返しであり、悲しみと喜びは同一である。究極的に結論を下せば、悩む自己など宇宙の生まれる前から宇宙の終りまで、ずうっと存在しない。英語で言った方が分かりやすい。

 I have been dead ever before the universe was born and droppped off, and I will have been dead until the universe dies out.(わたしは宇宙が産ま落ちる前からずっと死んでおり、宇宙が死に絶えるまでもずっと死んでいるだろう)

 私にとって「死ぬ」とは現在完了形であり、未来完了形である。行為としてのdie my deathを想定しなくてもよいのである。永遠の状態としての「死」の方が親しみやすいのである。

 また仏教の話になってしまった。最近はどんな話題も仏教的な話に最終的に落ち着いてしまう。それは私が絶えず安楽な結論を求めているからだろうか、仏教的な指向の在り方そのものが安楽なのか、判断できないが、まあどちらでもよい。どちらでもいい、という結論位、平穏な結論はない。大事なことは、安心することである。毎日が危機的だからこそ、安心する工夫が必要なのだ。仏教に優先順位などと言う概念は存在するはずがない。順位をつける自己の存在が空虚なのだから、もはやこれまでで、えい!っと決めてしまえばいい。一度決めて猪突猛進すれば、何か見える筈である。