Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

冷戦の終焉と無の実践

 現状を認識し、課題を見つけ、達成目標を設定し、それに向かって猪突猛進し、気が付いたら随分と早く目標が達成されてしまい、最早、見つける課題も無くなって安心していると、現状が変化していることに気が付き、再び現状の認識を改め、そして再び課題を見つけ、再び現状認識に見合った達成目標を設定し、さらに再びやる気を起こして猪突猛進し、気が付くと随分と早く目標が達成されてしまい、最早・・・

 企業人の精神とは、循環構造であるのか。そうだとすれば、この循環に終止符を打つのは、己の生命の期限、つまり寿命である。若しくは、寿命を早める天災や事故や病である。循環とは無限とも書くが、これは見方によれば賽の河原のような、永遠の懲罰とも取れるし、楽園のような、永遠の安楽とも取れる。本人の眼の付け所によって、認識は大きく変わるだろうと思う。しかしながら、一度、企業精神を取り入れてしまうと、そこから抜け出すのは至難の技である。循環構造から抜け出るためには、一度、循環の外に這い出て、循環の中で行われている内情を観察することと、その観察記録から定義なり、仮説なりを提唱してみることが何より肝要だと思う。もしも己の観察力が凡庸で、循環機構に取り込まれた方が良かったと反省するならば、再び取り込まれればよいだけだ。反対に、自説の正当性を認識して、もうあの循環構造とは縁を切ろうと思えば、自ら起業するなりなんなりをすればよいだけだ。

 競争社会に倫理観は必要ない。嘗ての日本的経営や禅寺に企業人が通うというのも、最近は聞かない。一部の企業人の間で一時の流行のように広まったりするのだろうが、本質的な、根っこにある考え方までは変わらない。合理と効率を追い求めるマネー・ゲームの空しさなど、日本人はよく分かっている筈なのに、誰もそれを止めようとはしない。自転車操業とはまさにこの事だ。ペダルを漕ぐ足を止めてしまえば一貫の終り、と信じているからこそ、走り続けるしかない。立ち止まるときは、死ぬときである。そう思って居る人々が、多いような気がする。

 立ち止まった経験がある人も、体も治り、気も落ち着けば、再び走り出す。ゆっくり行こうよと声掛けすることも無く、まるで一度も挫折したことが無い様な顔つきで、職場に復帰する。それは虚勢であるのだが、虚勢を張らないとやっていけない位、皆の顔が怖いのである。そうして、再び病に掛かったり、遂に復帰できなくなってしまう。しかし、誰もその人のことを憎んでも恨んでも居ないのである。なぜなら、誰も彼も彼女も、ただひたすらに毎日の仕事に追われ、気を使っている「振り」、気配りをしている「振り」だけで精一杯だからだろう。この「○○している振り」というのも、実際の所、かなり疲れる。ごっこ遊びのようなもので、いい加減この役も飽きたよ、っていう段に為れば、一人、また一人と、徐々に劇団から姿を消してしまう。そうして気が付くと、舞台に残っているのは私だけで、独演会になっている、という訳だ。もし全員がこの舞台から降りてしまうと、今度は大変である。戦々恐々の日々の始まりだ。もうストッパーも緩衝材も無い、ガチンコの殴り合いのような状況がいつ始まってもおかしくない。これではソ連アメリカの冷戦状態である。

 僕は、もう、色々と考えて来たけれど、やっぱり他人に期待することを止めることにする。この冷戦状態から「えい!」と一足、勇気をもって踏み出そうと思う。他人に期待せず、自分に期待せず、過去を顧みず、未来に希望を持たない。これは絶望ではない。清貧の思想などでもない。思想ではない。実践である。しかし「○○する」という形式の実践ではない。「○○したくない」という形式の実践であるだろう。相対主義でもない。ニヒリズムとも違う。(ちなみに「ニヒル」ってラテン語で「0」の意味なんですって!だからニヒリズムの意味は「0主義」に為るのか!)無論、主義主張ではない。言葉はあまり関係ない。論理的な枠組みも曖昧である。言うなれば、「0」の実践である。空集合だ。無だ。これは言葉とも論理とも呼べないが、しかしながら認識と実践の両方に跨っている。「○○な感じ」としか形容できないような実践を積極的に選ぶことで、主義や主張に異を唱えたい。最後に。主義主張を声高に叫ぶ行為とは病の元である。無の実践とは元気の元である。