Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

楽になるポーズ

 仕事とは疲れることであり、家事とは疲れを増すことであり、学問とは疲れ切った体に鞭打って、更に疲れさせることである。眠りとは疲れをとることであり、食事とは休ませた体に栄養を与えることであり、運動とはスタミナをつけて疲れにくくすることである。仕事・家事・学問。睡眠・食事・運動。これらの基本的な生活の要素をすべて排除したところに生まれるのは、暇である。暇とは補集合のことである。暇の過ごし方とは、私にとっては、煙草である。または珈琲である。その両方を実現する場所が喫茶店である。つまり私にとって暇とは喫茶店である。暇の過ごし方は煙草や珈琲といった一人の隠れ家的空間だけではない。他者と経験を共有することもある。例えばマイカーで旅行する事。催し物に行ったり、海岸沿いを歩いたり、映画や演劇や芝居や落語を観に行ったり、避暑地でテニスをすることである。要するにスポーツである。スポーツの語源的意味は、運動競技ではない。15世紀初頭に使われていた"disport"(気晴らし、遊び)の頭音消失が起きて、"sport"となったのである。dis-(離す)+-port(運ぶ)=「気持を別の所へ運び去る」が本来的な語の構造である。つまり、「気晴らし」と「遊び」こそスポーツの語源的意味である。喫茶店で過ごすのも飽きることがある。また物見遊山にも飽きることがある。それは、下らない暇つぶしがだんだん楽しくなってきて、より多い楽しみを味わい尽くしたいと思うことから始まる。楽しすぎると離れるのが辛くなる。もしくは、飽きて来る。辛さと飽きは、暇につきものである。つまるところ、仕事のように趣味を楽しむと、疲れが生じて苦しみが生まれるのだ。

 では楽な気持ちになるのは、一体いつどこで生じるのか。それは方法論ではない。構造的な把握である。把握したとき、私は初めて楽になる。否、正確に表せば、この世は空しいと直観するとき、言葉と論理を越えた所で「そうか」と思ったとき、楽になった。それは仏教だけの専売特許ではない。ただ、一神教的な思考法では辿り着くのがより困難になるだろうと思う。全知全能の神を、まず否定し、その否定しようとする自己を否定し、遂に否定という言葉と論理を否定する。それが般若心経の神髄であるようである。私はそれすらも「違うかな」と思う。言葉や論理で表現した瞬間、やはり「違うな」と思ってしまう。だからこの感覚は私だけの所有物のようにならざるを得ない。仏陀が利己主義者であったというのはどうも本当らしい。悟りを教えたくない、という心境は分る気がする。なぜならどうあがいても、この気持ちは分るまいと諦めているからだ。そして、それでいいのである。

 すこし試みとして、私がどのような思考回路で空の観念に到達したのかをご披露したい。まず先程述べた、仕事・家事・学問の構造的な把握をする。次に、それを下支えする睡眠・食事・運動の効率を追い求める。そしてその補集合としてスポーツすらも構造化しようと試みる。しかし、これら全体を客体として捉えた時に生じるのは、達成感ではなく悲哀と虚無という情感であった。その情感すらも客体として捉えようと試みるとき、肉体(感性)と精神(理性)を媒介する魂(知性)の躍動が生じる。この躍動感すらも、客体として捉えようとするとき、それは殆ど不可能に近いのだが、それが万が一実現したことを想定すると、初めて「無」に行き着く。「無」に行き着いた途端に、全ての知性も、理性も、感性も、つまり魂も、精神も、肉体も、「無」に為る。躍動は静止し、悲哀は消失し、虚無は意味を失う。スポーツも運動も食事も睡眠も、ただの色に過ぎないと分かる。学問も、家事も、仕事も一切が空なのだと分かる。長年私に付き纏ってきた実存的な不安も静かに消え去り、個人的な悲哀を文学的に位置づけようとする希望も、私が「無」である以上、意味が無くなる。あらゆる意味も価値も判断も反転して、無意味、無価値、不可能になったのだ。そうして、やっと「楽」になった。

 「楽になる」とは何か。それは般若心経を理解することである。(実際は理解した振りをしているに過ぎないのだが。)では般若心経とは何か。それは無の思想と楽の実践である。無の思想とは何か。究極的な智慧である。楽の実践とは何か。禅僧の暮しである。究極的な智慧とは何か。それは色即是空・空即是色・諸行無常の三つである。禅僧の暮しとは何か。西田幾多郎の定義するところの「行為的直観」である。諸行無常とは何か。宇宙的な始まりと終わりについての知恵が人知を超えていることを認めることである。「行為的直観」とは何か。色蘊(物質的存在)・受蘊(感受作用)・想蘊(表象作用)・行蘊(意思作用)・識蘊(認識作用)を総じて五蘊と呼ぶが、それが全て実体のない仮の姿に過ぎないことを知ることである。纏めると、楽になるとは、宇宙の始まりと終わりは(少なくとも現在の自分には)知りようがないことを認め、全ての実体が仮の姿に過ぎないことを積極的に認める行為的態度のことである。究極的に纏めれば、楽になるためにはそうなる為の「ポーズ」をとればいい。その「ポーズ」の取り方は、人それぞれで、どれが一番優れているなどは誰にも決められない。私は、あまりピース・サインをしたり、鏡の前で笑顔になる事は少ないが、散歩をよくする。散歩とは私にとって最も平和的な「ポーズ」であるからだ。

 こうやって書いてみると、最近私の心を占めていた虚勢、つまり既に大成したような気持ちが雲散霧消していくようで気持ちがいい。なぜなら、私の結論は、散歩しよう、ということだから。こんな簡単ことは小学生この頃から知っている。私は大成などしない。既に空を知ってしまったのだから。それと恐らくこのブログも、散歩と同様に、平和的な「ポーズ」の一つに違いない。