Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

私たちは進歩していない

  無の実践とは、実践と呼ぶには余りにも素朴で簡単そうに思えるものの、完全に実践するのは殆ど不可能な程に論理的で技術的である。無の思想とは、思想と呼ぶには余りにも脆弱で曖昧に記述されているものの、完全に理解するのは殆ど不可能な程に厳かで芸術的である。つまり、無の思想と実践とは、不可能を可能にする為の方法論ではない。不可能を不可能のままにして置いても全然平気な、無敵な態度が自然に取れてしまうような精神と身体の均衡状態の様なものである。それはまるで自然数だけでは0が定義できない様に、記号(言葉と論理)だけでは無は定義できないのだ。計り知れないから尊いのである。

  定義できない事象そのものを定義しなければいけない場合というのは、例えばそうしないと面倒で仕方がない時などである。魂の存在などはまさにそうで、存在するとしてしまった方が、人間の暮らしにとって何かと都合が良いからそうするのだろうと思う。要するに、人間の営みを成り立たせるには、記号的実在は存在しないかもしれないね、と不安を掻き立てるよりも、社会生活に於ける利便性と安定性を重視して、そうは言っても魂は存在するよ、と言ってあげた方が、多くの人にとって幸福であり、為政者にとっても都合がいいのである。

  為政者の都合で真実がねじ曲げられたり無かったものにされるというのは、学問の歴史を少し見てみれば直ぐに分かることである。人類の進歩とか言うけれど、果たして、古代インドで見つかったと言われる「0の発見」に比して、更に素晴らしい発見などあったのだろうか?これは感性の問題かもしれないが、釈迦が生まれたとされる紀元前463年より、人間は全然進歩などしていないんじゃないだろうかとすら思いたくなる。何とか文明とか、何とか帝国とか、何とか戦争、何とか革命などをひっくるめて「世界史」という大河ドラマについて、不勉強な故に詳細を知らないから何となくのイメージだけで言うが、人類の智慧の観点からすれば、紀元前までに世界中で勃興した宗教や学問の発達と比べれば、紀元後の技術(主に武器と通信)の如何に発達したかなど、全然お話にならないくらい知性に於いてお粗末なものなんじゃなかろうか。つまり私たちは少なくとも2500年以上、知性に於いて一歩も前に進んでいないんじゃなかろうか。