Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

他人様の犬様

 毎日が何気なく、造作なく、不可思議な位愛情に満ち足りていて、しかも穏やかで、また清潔で、静かであり、孤独になるための時間も空間も十分に備わっているのならば、いつ死んでも好かろうと思う。たとえ何も達成されなくても構わない。計画など失敗するために立てるのだから。後悔や懺悔をしても構わない。そうした情の強さは、決して弱さの証ではないのだから。その瞬間に満ち足りていれば、死ぬための必要十分条件は完成する。だから、もしも毎日が満たされているのならば、毎日死ぬつもりで生きている筈である。幸福に生きることは難しくても、満ち足りて死ぬことは可能である。

 私にはあまり欲が無いようである。名誉欲や金銭欲も少ない。知識欲は旺盛だったが、今はかなり落ち込んでいる。装飾に対する欲望も余り無い。自らを美しく見せようとする気持ちは、高校生くらいの時がピークだった。あの頃の自分を、今の自分はどう評価するだろう。可愛いなと思うくらいだ。今は良く見せるために着飾る必要も感じない。心境の変化はいつ起こったのか、いまいち思い出せないが、それも好いだろう。果たして人間の煩悩の数は百八つだろうか。大まかに言って、人を苦しめる煩悩は三種類である。即ち、異性・金銭・地位名誉である。これらを総括りにすれば、人間関係となる。人間関係からの解放こそ、思うに、苦しみからの解放である。

 そして、私は悟りを開けないことを心の底から理解したので、人間関係から解放されないことを十分に知っている。では救われないのかと問われれば、そうでしょうねとしか言えない。では、救われないことを知りつつ今の状況に甘んじるのかと問われれば、そうでしょうねとしか言えない。では、あなたは今のままでよいのですかと問われれば、そうでしょうねとしか言えないのである。つまり、悟れないのならば悟れないままでよいのである。しかしながら、それは日々の実践を怠る理由にならない。むしろ逆である。どうせ悟れないのなら、一生懸命にやろうと思う。

 では、今日の発見を一つ。今日、夕方、近所の公園に行くと、愛犬家の皆さんが集っていた。各家の犬が(リードを繋がれてはいるものの)人の手を離れて公園の緑の芝生の上を走り回っていた。不思議に思ったのは、どの犬もその公園から出ようとしないのである。昔私の飼育していた犬は、雑種で、はっきり言って馬鹿面で、元気だけが取り柄の犬だったので、放し飼いなど到底出来なかった。すぐにどこか遠くに走り去ってしまうので、リードを固く握りしめていなければ、ロッキーは何処かへ行ってしまうと思っていた。しかし今日出会った犬たちは、よく躾けられているのか、どの犬も上品に、余り走り回らず、主人の周りを回って見せたり、投げられたボールを素早く口で咥えて持って帰ってきたり、観ているだけで心安らぐ風景なのであった。

 犬は賢い。犬こそ私の師匠である。彼彼女は、不平を言わない。ロッキーも馬鹿面で実際馬鹿犬だったが、何時だって私が家に帰ったときは、例え深夜遅くでも(至極ダルそうな感じではあったが)出迎えのぺろぺろを欠かしたことは無かった。犬はどんな犬でも犬である限り立派である。徳川綱吉の「生類憐みの令」は愚の骨頂として今も尚語り継がれているが、綱吉こそ将軍の中の将軍、大将軍である。今こそ、安倍総理は平成の最期の改革として、犬・猫の生命尊重を政策として打ち出して欲しい。

 犬のある人生。犬のない人生。これはまさに私にとっての、幸福な人生、不幸な人生の好対照である。無論、犬のある人生を選びたいところだが、今はマンションに住んでいる為叶わない。毎日夕方公園に行って、他人様の犬様と戯れさせて頂くより他ない。