Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

家事は遊びではない

 家事は遊びではない。家事とは現場である。それは仕事が現場であり、取材が足で稼ぐものである様に、趣味が人生そのものである様に、家事とは手と目と耳を十分に働かせて一所懸命に取り組むものだと感じる。これはおままごとではなく、かといって誰から対価を支払われるものでもないが、であるからこそ仏教的な姿勢が求められる。つまり、誰も見てないからこそ、遣るのであり、客が来る前に終わらせるべきであり、それはとても仕事的である。また自己修練の良い機会である。家具や衣類や食器を丁寧に扱うことを覚えるからである。己の稼いだ金銭で購入したあらゆる物が、家事の対象になる。靴磨きのような手裁きで、台所や洗面所を磨き上げる。どこかの中小企業の社員教育では、素手で便器を磨いて人間教育を施すそうであるがこれは愚行であり、なぜなら、家事は理科の実験そのものであることを知らないからである。洗剤の仕様書にはちゃんと「酸性・中性・アルカリ性」と書かれてあり、最適なphや温度や組み合わせる掃除用具が明記してあるからである。家の汚れとはまさにこの化学反応の結晶である故、科学の知識が無ければ適当な対応が出来ない。

 家事を毎日やること、特に水回りの掃除を欠かさないことは、精神衛生にも大きく影響している。風水について私は良く知らないが、玄関をきれいにすることを重視していると聞いたことがある。それはつまり、風の通り道をきれいにせよ、と伝えているのだろう。家事の基本は換気であるのは経験的に誰でも知っている。風の通り道をまず確保し、汚れた水を新しい水に入れ替える。それだけで家事の半分は終わったようなものだ。花や木の水遣りも、最初は忘れがちだが、慣れてくるとなかなか面白い。草木も生き物であることを知るからである。一日水をやり忘れた草木は、葉っぱが萎びたり、色が黄色く濁ったり、全体から生気が感じられない。そして、ああ、ごめんね、と思う。君も生きていたのかい、と会話が始まる。そうなるともう忘れない。情緒を養うのに、生き物と接するくらい「手っ取り早い」方法は無いんじゃなかろうか。

 それにしても、こうして家事をすると、体をよく動かすし、なんだか気持ちもすっきるする。ジムなど通わなくても、床磨きで十分、体幹や二の腕も鍛えられるし、洗濯物を干すのだってかなりの重労働だ。毎日の家事とは、まず経済的であり、つぎに生理運動学的であり、最後に心理学仏教哲学的である。身体を鍛えたい人は、家事をお奨めする次第である。