Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

父親のこと

 父親のことをよく考える。なぜあんなにも父親と言うのは、ややこしい存在なのだろうか。愛憎。父子関係(特に子供が長男である場合)ほど、愛と憎しみにまみれた、切っても切り離せない濃厚な人間関係は少ないんじゃなかろうか。

 しかし、悩み苦しみとは空である。だから、父は元々存在しなかったのであり、その為私も生まれなかった。だから、本来、父子関係にせよ母娘関係にせよ、元々存在しないのだ。存在しない、影のようなものに過ぎない。表象に過ぎない。父親とは唯のイメージである。そんなオモチャみたいなものに、心底脅かされたり、悩まされたり、恨んだり、愛着が沸いたりしているのである。

 空を見上げて、雲が浮かんでいる。父とは雲のようなものだ。私は小学生のまま、Tシャツに短パンで、水性絵の具と筆と画用紙を持って、空を描いている。父の顔は変幻自在であるため、どの顔を描けば良いか決まらない。観察しようにも、直ぐに雲隠れしてしまって、全然本心が掴めない。だからどうしても想像の顔ばかり描いてしまう。

 なぜか知らないが、父はいつも怒っている。足をドシドシ踏み鳴らす。ドアや襖をバン!っと閉める。何かぶつぶつ呟いている。チェッと舌打ちをして、何かにつけて怒りをぶつけている。私が何かしたのかしらと己の振る舞いを振り返る。大抵思い過ごしである。恐らく会社で上手く行かなかったのだろう。事実、私に文句が在れば、即座に怒るからである。分かりやすいと言えば分かりやすい。こちらに非が無い限り、怒られることはない。ただ、年から年中、絶えず機嫌が悪いだけである。

 私は父の機嫌を取るためにわざわざ上京して一緒に暮らしているわけではない。しかしながら、同じ屋根の下で暮らすのだから、最低限度の会話なり、コミュニケーションなりは必要だと思って居る。昔気質の父親に、平成育ちの私の言葉がどれくらい伝わるのか。全く伝わらないことばかりである。しかし、彼もまた、私同様に、空であるのだ。同じ屋根の下で暮らすと同時に、屋根のさらに上に在る、一つの大きな空を共に分かち合っている。屋根を支える梁の下の地面の更に下の地殻を流れるマントル海流を分かち合っている。宇宙から見れば地球は一つの球体に過ぎない。私たち親子は、その球体の表面の色形に過ぎない。さらに大きく宇宙全体で考えれば、地球など砂場の中の一粒の粒子に過ぎない。だからこそ、現世的な接続、つまり血縁や制度や論理や情緒といった「些細なこと」で、一つに繋がる必要は無いのだ。元々、同じ無であるのだから。

 「父親」というキャラクターを想定すればそこには「家族」という「物語」が始まる。そして己はその「父親」と「母親」の間に生まれた「長兄」という役割が与えられる。しかし、もしもそうした制度的役割や血縁を一切度外視してみれば、父親は一個の雄であり、母親は一個の雌であり、私は二つの個体の交配の結果としての新たな個体に過ぎない。遺伝子を半分ずつ分け与えられた、新たな「乗り物」である。だから私に子どもができれば、それは私と私の妻の半分ずつの遺伝子を持つ、更に新しくなった「乗り物」を作ったというだけである。端的に言えば、家系など車のモデルチェンジに過ぎない。

 だから、モデルチェンジに過ぎない自己など、端から下らない存在に決まっている。そして、自分ってどうしようもない人間だなあと思えばこそ、それは、私の両親も全く同様に、どうしようもない人間であるからに決まっている。ドングリの背比べとは、まさにこの事だ。血は争えない。

 私の目標は、父と対峙した時に、上手く流すことだ。恐れすぎず、親しみすぎず、遠すぎず、近すぎず。この加減はなかなかスリリングであり、面白い。父のことを考えるとはつまり、自分の「半分、赤い」遺伝子のことを考えることだ。母のことを考えるとはつまり、自分の「半分、青い」遺伝子のことを考えることだ。自分のことを考えるとは、つまり両親のことを考えることだ。両親に非難するべき性格や人格的欠点が在るのならば、それは丸々私にも引き継がれている筈である。鳶が鷹を産むことが無いように、私も鳶の息子として気長に遣りたいものだ。

 

追記)昨日、父が怒っていた理由が分かった。仕事で左手の小指を突き指してしまって、思うように動かせなくなっていたのだ。今日、病院に行くようだ。やはり、想像とは恐ろしいものだ。勝手に誤解したり、勝手に判断したり、恨んだりする源泉となる。気を付けよう。