Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

議論とはゾンビ同士の決闘である、のか?

   現実に起きる議論とは、己の言葉と相手の言葉の魂と魂の決闘である。言葉で相手をぶちのめす。言葉の礫を相手の向こう脛目掛けて投げ付ける。痛い痛いと泣き叫んでも構うものか。徹底的にやるのである。相手がもう降参ですと白旗を振って、やっと決着が着いた様に見える。しかし、始末に悪いことに、議論とは互いの生命までは賭けない。だから議論で打ち負かして死んだはずの相手は何回でも生き返る。ゾンビである。いつか自分もゾンビに噛みつかれて、気がつくとゾンビになっている。ゾンビ同士の果たし合いだ。かくして議論という名の決闘は永遠に終わらない。

   弱い犬ほどよく吠える。粘着質的といって良い。鳥もちのように相手にへばりつき、スッポンの様に、一度食いついたら離れない。後退のネジはとっくの昔に外してあるのか、全く戸惑う様子がないのである。段々私は怖くなっていく。これは議論なのか、口喧嘩なのか、誹謗中傷なのか。重箱の隅のつつき合いなのか。敗けの合図はないので、上手を取る為だけの勝負になってくる。どんどん話が膨らんでいく。風船が膨張するように、互いの虚栄心もどんどん膨らむ。もはやこれ迄か、と思ったら、今度は地球規模の壮大なスケールの話になって来る。地球を使ってまで議論に勝ちたいのか?それほどかい、と言いたくなる。こっちも負けずに、宇宙を使って議論する。向こうは今度は来世を取り出す。こっちは前世だ。向こうは神様だ。こっちは仏様だ。もう何がなんだか、収拾が着かない。

   それにしても、私は議論が好きである。議論に勝ちたいのではなく、議論の場が好きなのだ。相手に悪意を持たれようが、敵意を剥き出しにしてこようが、それでも議論を止めない。議論を止めるとは、即ち、対話の消滅だ。もしも対話する場が無くなれば、私の議論も全部独り言になってしまう。そっちの方が怖い。だから、向こうをなだめすかしてでも、負けるが勝ちと開き直って、対話を続けようとする。それが尚一層、相手の気持ちを逆撫でするのだろう。最早、敵意しかなくなる。罵詈雑言の嵐だ。私は殆ど半狂乱になっても尚、落ち着いて、席に着こうよ、何かしゃべろうよ、と促す。向こうはもう頑として何も喋らない。黙秘権だ。あぁ。黙秘権。議論においても黙秘権は在るのか。

   最初のあの平和な握手から始まった、穏やかな春の陽気は今はない。相手は鬼の形相で私を親の敵の様に睨み付けている。何でこうなってしまったのだろうか。俺が悪いのか。多分そうなんだろう。あぁ。もう議論なんてしない。好き嫌いなんて言わない。信条や信仰心の話もしない。生き方!あぁ、生き方の話なんて!僕は、なんて遠大な話題を取り扱ってきたんだ。意見が割れるに決まってるじゃないか。意見が割れても、尚、友達で居てくれる人間なんてすぐに見つかりっこないじゃないか!そんな、私を全人格的に認めてくれる人間なんて、母親と二人の親友くらいのものだ。彼らに会いたい!そう思いたくなる位に、今落ち込んでいる。

   繰り返しになるが、議論とは言霊同士の決闘だ。スピリチュアル・バトルだ。遊☆戯☆王で言うところの決闘者(デュエリスト)だ。相手を選ぶ目を養わないと行けないな。もう今日のデュエルはお仕舞い!