Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

親に感謝する覚悟

   素直に言うことを聞くのと、相手を直ぐに信頼するのとは、意味合いが全然異なる。同じ言葉でも、話す人間によって伝える意味内容が変化するのは当然だ。言葉の信憑性は話し手の信頼に関わる。もしも信頼している相手から誉められれば喜ぶし、信頼していない相手から貶されれば腹が立つ。信頼している相手から貶されれば自問するが、信頼していない相手から誉められても、裏読みして結局腹が立つだけだ。

   信頼について考えると、私は総じてあまり人を信頼しない。親兄弟も、親友も、恩師も、心の何処かでは何時も小馬鹿にしている。これは事実だから仕方ない。全幅の信頼を寄せる、など私には出来そうにない。特に、まだ息をしている人間(生存者)に対してはそうである。生きている限り、その人間の思想や良心が転倒するやも知れない。信頼とは、裏切りに対する恐怖に打ち克つことだ。若しくは、裏切られても構わないと開き直ることだ。それは覚悟と呼べるのかも知れない。

   そうか、私は覚悟が出来ていないから、信頼できないのだ。人を信頼しないからこそ、人から信頼されるのを嫌うのだ。「俺にもたれ掛かるな」、「俺に依存するな」、「俺を信じるな」と、仕草や目の色で相手に伝えているのだろう。非言語的コミュニケーションと言うらしい。私は言葉遣いを丁寧にしようと心掛けているが、仕草や目の色までは完全にコントロール出来ない。それは心理学についてあまり知らなくても、分かることだ。言葉の真意は人柄に現れる。それもまた当然のことだ。

   他者を信頼せず、自己を信頼せず、言葉と論理に存在を賭けるような生き方は、どうしたって世間と折り合いが着かない。頑なに己のルールを守ればそれだけ、意思疎通に於いても自己理解に於いても、当然、ハンディキャップを背負うことになる。騙されたくない、恥を掻きたくない、損したくない、馬鹿と思われたくない、失敗したくない、後悔したくない、自責の念を抱きたくない、罪を他人に擦り付けたくない、悪意や殺意を抱きたくない、誰も傷つけたくないし、自殺も嫌だ。果たしてこれは実現可能な希望なのか。それとも言葉の表現のみに成り立つ、仮想の暮らしなのか。

   生きるのに、覚悟は要るのか。そんなに大袈裟なものか?生きるって?それは、もっと個別具体的に言えば、私が現在のニッポンの東京都で暮らしていくことの難しさだろうか。家族に養って貰っている、バイト代すら本代に消えてしまって家計も助けないろくでなしの大学院生。一年弱働いてちょっと病気になったからといって、「社会勉強」という永遠の宿題を既に終わらせてしまったかのような、その得意そうな顔。お前なんかどうせ録な人間じゃねえんだ!お前から親兄弟、親友、恩師に信頼させて頂いて居るんだよ。お前が他人様から信頼されるなんて百年早いよ。恥を知りな。

   自分は親に食わせて貰っている。たとえそれ以外の事情でどれだけ腹が立っていようとも、食わせて貰っている事だけは、毎日毎晩、感謝した方がいい。お前には報恩感謝する手段が今は無いんだから、父上母上の言葉を信頼するしか他に方法はねえんだよ。まずお前に必要な覚悟は、親に感謝する覚悟だよ。分かったか、このボンクラ!