Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

私論は下らない

 感性・理性・知性の根本はそれぞれ、疲労感・不快感・厭世観である。ニヒリズムが発見されるずっと以前から、言葉や論理や信仰心が生まれる前から、ずっと在るのはこの感覚であるのだ。疲労感は万能感に、不快感は快感に、厭世観は礼賛に、それぞれ帰納していく。帰納した後、何が起こるか。最早、これ以上何を望むの、という自問自答である。そして疲れが生じる。不快感が生じる。厭世的な生活を望むようになる。これは不可逆的な思想のパラダイムシフトなんだろう。振り子のように、ネガからポジへ、ポジからネガへ、そして再びネガからポジへ。揺り戻しが今起きている。国家や政治の話ではなく、私個人内世界においてである。

 熱狂を求めた10代、不健全で不満で不全感を覚えた20代前半、そして厭世観や実存的不安や絶望を知った20代後半、30台に突入しようとしている現在の私は、あらゆることは空であったと半ば無理矢理思い込もうとしている。ポジから0へ、0からネガへ、ネガから0へ、そして0からポジへ。振り子のように揺れ続けているだけだ。そうやって客観的に個人の歴史(なんて下らない!)を眺めてみると、0に居続けることが出来ないという空しさだ。この空しさ、己のどうしようもない不安定さ、これこそ空即是色なんだろう。悟れないとは、己の不完全性への認識だ。

 色即是空空即是色。これを唱え続ける目的とは、0に位置した瞬間的な自己が 確かに 在ったことを、完全に 忘れる為だ。そうではない、と、言い聞かせ続ける為だ。あの「悟ったかもしれない」と思ったのは、全て思い過ごしだ。そうに決まっている。今の苦しみが 完全に 拭い切れていないのだから。悟り切れていない反証が、探せば幾らでも出て来るだろうという直観があるからだ。悟っていないことを知れ。諸行無常とは真の空語である。それは諸行無常の意味が空っぽであるという意味ではなく、その内実を知ることが遂に出来なかった自己の無力感を意味している。

 難しそうな話をしても仕方ない。もっと分かりやすい文章を書きたいなといつも思う。自分語りの下らなさを、よくよく自覚しなければいけない。

   そう言えば、般若心経は仏陀の言葉ではないそう。大乗仏教の信仰心を抜粋した物らしい。言葉と論理に過ぎないから、そんなに大した話ではないそうだ。幻滅したと同時になんだか安心した。これで、自分が大したことを知った訳じゃないことが論証された。