Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

病院の待合室にて

   精神病院の待合室とは、執筆の最適な場所かもしれない。まず落ち着いており、ゆったりとした音楽が流れており、快適な空調環境が整えられており、清潔な椅子が並んでいる。精神病の患者は、一人一人が個人の最も快適な距離を持っているために、電車のように席を詰める必要を感じないよう、病院側も必要よりも多目にスペースを取っているのだ。診察の順が呼ばれるのを待つ。この待ち時間とは思索に充てるのにとても適していると思う。

 

   お呼びが来るまで、少しの間考えてみる。何に最も恐れを抱くべきか。恐怖するべきものが在るとしたら何か。私は何に対して恐怖するか。言わずもがな、精神障害者のことを私は最早恐れない。また父親の暴力的な立ち振る舞いや言動にも、以前よりは恐れなくなった。世間一般に恐れられているもの、即ち、地震や雷や豪雨や台風といった天災は、私は余り恐れない。と言うのも発生のメカニズムが分かりやすいし、畑村洋太郎博士の提唱する「失敗学」の知恵があれば、事前の準備も事後の対処も円滑に行うことが理論的には可能だからだ。

 

   理論が出来るとは、私にとって安心の礎が出来たことを意味する。足場を組まないと家が立たないように、恐怖に対峙するには此方の覚悟を定めなければならない。恐怖とは底無し沼のような物だ。深淵を覗き込むとき、深淵もお前を覗いている(ニーチェ)。これは信じていい言葉だと思う。私が感じる恐怖とは、深淵に己が隅々まで見透かされる恐怖なのである。

 

   己の魂にいくら装飾を施そうとも、深淵の前に立てば、意味を剥奪される。丸裸にされる。自信は自惚れであり、矜持は軽薄さであり、手練手管な経験は狭量さである。四肢の美しさとは、時間の経過によって滅び行く物として把握される。真理への探究心は、限界への挑戦ではなく、限界を認識する為の行為的な直観である。道義や任侠を重んじた所で、己の欺瞞的な振る舞いは正当化され得ない。大義のために自殺的行為を強制されることもある。それは最も哲学的な姿勢から、結果的に、遠ざかる。

 

   だからこそ、必要なのは空洞なのだ。ブラックホールのような、空き地の土管のような(ドラえもん的な)、陶器のマグカップの中に注がれた真っ黒の珈琲の様な、何でも吸い込んでしまう穴である。世界から意味を剥ぎ取る暴力的な装置である。舞台演劇における暗転のような仕掛けである。この穴には何もない。何もない事象だけが「ある」。空集合だ。だからこそ、この穴を掘っていけば行き着くのは無限の表象だ。夢のような、万華鏡のような、星の瞬きだ。蛍光灯の灯りは、人間には感知できない速度で点いたり消えたりしているそうじゃないか。私は時間の概念の存在しない亜空間で、蛍光灯を点けるようなものだ。蛍光灯は同時に点いたり消えたりする。シュレディンガーの猫のような、存在と死が同居するような、理解を越えた存在の仕方が、この土管の中には「ある」。あらゆる行為の選択が無駄であり、あらゆる芸術的感覚も錯覚であり、他者と自己の区別も曖昧になるので自分固有の感情もなくなり、他者への配慮も眼差しも軽蔑も、存在しない。

 

   きっとここまで読んで頂けた人間は、居ないと思うから、もっと自由に書こうと思う。

 

   宇宙とは名付けにすぎない。世間とは関係性に過ぎない。人間とは幻に過ぎない。「今此所」を思うことはできない。なぜなら、「今此所」は既に存在しない。思う瞬間に表面からポロポロと意味が剥がれ落ちていく。絶えず脱皮している幼虫だ。現在とはいつも未完成の変態であり、過去とは抜け殻に過ぎない。未来とはカレンダーの日付に過ぎない。僕の誕生日は僕の生まれた日付であると同時に、僕の命日が書き込まれた日付でもある。死んだ後のことは分からないが、多分夢の続きだろう。

 

   詩人のことはよく知らない。でも今僕は詩人になれるなと思った。