Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

言葉の軽さ・論理の薄さ

 正論を組み立てるのは、言葉の限りない軽さの証明である。逆か。言葉が鶏羽のように軽いからこそ、幾重にも折り重なって、真理らしきものに容易に辿り着けるのだ。もしも言葉が岩石のように固く重く、硝子細工のように繊細で壊れやすい物だったのならば、論理という記号の積み重ねも、レトリックという比喩体系も存在しなかっただろう。言葉は本来、軽いのだ。言葉の軽さは罪ではない。軽いはずの言葉をさも重要な真実のように扱おうとする人間が罪深いのである。

 人間は言語的動物と言うが、果たしてそうか。人間は自己愛的動物と言った方が実情に近いと思う。利己的であるとは、倫理的に言えば罪の最たるものだ。しかし、人間の本性が利己性であるとするならば、どんなに努力しても誰も救われない。それはつまり、人間は空しい存在であることを認めることになる。

 ところで初期仏教の源泉には自己救済のための悟りという思想があるのだろう。ギリシャ哲学の発想はやはり理性の力を前提とした、人間中心主義であるだろう。孔子の思想とは何だったのか。『大学中庸』に於いて最高善とされたの「誠」の思想である。誠とは何か。それは先ず以て行いの正しさであり、正しくない事が理論的に出来なくなる為の心の持ち用である。悪いことが出来なくなるから、悪いことも考えられなくなる。これは実践的な理性即ち「徳」である。徳の完成とは至善であるが、その理論的な可能性を示したという意味で、古典として今も尚読み継がれているのだろう。

 言葉に善悪の判断は無く、論理に上下の身分は無い。善悪の判断という意味付けは、独立して生じるのではなく、絶えず、意味の住処であるべき文脈や、話し手の主観と聞き手の客観の間に成り立つ関係性によって支えられている。上下の身分という差異性も、差異と感じる人間の直観が存在して初めて成立する代物だ。

 言葉を裁くな。論理を軽蔑するな。自警録の一行として残しておきたい。