Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』や小林秀雄の『考えるヒント』みたいな随想録や告白集を書くのが夢。嘗て高校教諭。現在はラップ研究している大学院生。Peace.

わたしの脳みそとマイ・ブーム遍歴

 僕の脳みそは少し可笑しいのだろう。他人の脳みそと僕の脳みそを二つ並べて実験したことはないから本当に僕の脳みそが変わっているのかは分からないし、(僕の脳みそを取り出して見るとき、一体誰の脳みそを使って僕は僕の脳みそを認識しようとしているのだろう。)脳にこだわる必要もないが、しかし、私は自分ではっきり認識するのは、一つのアイディアがぽんと生まれると、それに身体が振り回されてしまうことが多いのだ。さっきから、ずっと自己内会話が延々と続いている。自己内と言っても、私一人の孤独な独り言ではなくて、私の内部に住んでいる、記憶の住人たちとの議論である。議論が好きなのだろう。議論するためのテーマが与えられているとき、尚且つ、議論する相手が目の前にいない時、自己内会話が始まる。自己内議論の司会者は居ない。誰も彼も好き勝手に捲し立てる。互いが言葉の礫を相手の急所に投げつける。そうやっていくうちに、僕の脳みそ自体が疲れて来る。脳みそが疲れを感じて休息を取る時、初めて議論にも小休止が入る。ポーズ(pause)と言った方がいいだろう。まるで国会中継のテレビ録画のようだ。一時停止ボタンを押したように、静寂と停止が訪れる。脳みそがまた動き始めるとき、それは再生ボタンが押された時だが、議論が再開され、何事もなかったかのように、再び好き勝手な言葉の激論が行われる。その繰り返しである。

 僕は記憶する限り、最も幼い頃から、自分の内的世界で遊ぶことが大好きだった。指人形が大好きだったし、ソフビ人形で舞台演劇をするのも好きだったし、ごっこ遊びも好きだった。自由帳というのも大好きだった。自由に絵を描くことが好きだった。分厚い宇宙の本や恐竜図鑑やウルトラマン図鑑やきかんしゃトーマスのお話を、完全に 暗誦するまで繰り返し声に出して読んだ。クレイジーなまでにマニアックに内的世界に入り込み過ぎて、外的世界との境界線が曖昧になる時、外の世界に連れ戻してくれたのは、母親と弟だった。または気の合う友達だった。そうやって、外で遊ぶことも覚えたから、未だに本の世界にこもりっきりになっても、母親や弟の存在を感じると、ふと窓の外に目を遣ったり、記憶から離れようとするのだろう。

 こうやって話がずんずん逸れていくのは、私の習性なのか、人類共通の普遍的な脳の働きなのか、知らないし知りたくもないが、私は今このブログにハマっている。みうらじゅん氏の提唱する「マイ・ブーム」である。きかんしゃトーマスウルトラマン忍者戦隊カクレンジャーポケモン(銀)、遊戯王カード、ターミネーター(特に2)、ロボコップ(特に1)、EminemNikeのスニーカー、アメカジ、Amazonでの古本巡り、James Baldwin、般若教、そしてはてなブログ。幼少から現在までの28年間の個人史を振り返ると、そこには絶えず「マイ・ブーム」があった。共通項を見つけることは難しいが、強いてあげれば、コレクター精神なんだろう。結論として、私はオタクなんだろう。全て知りたい。全て集めたい。仲間と共有したい。そして、最終的には、人間を辞めて「物」に成り切りたい。対象そのものに成り切る。これこそ、オタクの最終形態だ。

 多くの人間が声優に憧れる気持ちが痛いほどわかるのは、しかしながら、それに決して到達できない空しさも肌で分かっているからだ。私はトーマスになれないし、ウルトラマンにもなれない。そんなこと五歳の馬鹿な私でも(半信半疑であっただろうが)既に気付いていた。私はポケモン・マスターになる事も、デュエリストになる事もターミネーターになる事もできないことを勿論知っていた。Hip Hopを隅から隅まで理解することもBaldwinの全集を読み切ることも不可能なことを知っていた。ブログを始める前から、こんな愚痴日記など誰も読まないことを、ブログを始める前から十分理解していた。だからこその「マイ・ブーム」なのだ。生産的でなく、利益も上がらず、趣味としても陳腐で、特に感性や理性が磨かれる訳でもない、人格形成に全く寄与しない活動なのだ。結果的に、それが何らかの形式で現実世界で利益をもたらしたとしても、それはあくまでも結果論である。反・功利主義。これこそ、マイブームの根本規範である。

 何の話をしていたのか、もう忘れている。要するに、私の脳みそはすこし過剰気味なのだ。今日のブログは、爆笑問題の田中さんの名言で締めよう。「もう、俺の脳みそを取り換えるしかない!」