Abyss

日々の思索と妄想と魑魅魍魎。三木清の『人生論ノート』とパスカルの『パンセ』が私の心の拠り所。Peace.

シナリオ・ライターの苦悩

 昨晩、修論と復学についてこんな文章を書いた。

 

ブレまくっている。修論を止めたい。しかし一度やると言ってしまった以上、止められない、止まらない。止めたくないのだろうか。なぜ僕は自分の首を絞めているんだろうか。修論とは何かしら。提出すればいいのかしら。何について?それは決まっている。決まっていないのは、その後の進路だ。だからやらないの?分からない。分からない。これが本音である。これはとても情けない事態だと思う。こんなにも自分の将来について期待していないのか。しかしかと言って絶望してるわけでもないのだ。現状維持万歳で、毎日を送っているんだろう。療養中だからだ。そう、私はまだ療養中。治ってきてはいるものの、まだまだ時間は掛かりそう。焦りや無理は禁物なんだ。健康を害するものは斥ける。修論を諦めることが治療の一環ならば、是非とも、今すぐにでも諦めたほうが良い。もしも明日から修論をしなくて良くなったのならば、気持ちは晴々するだろうか。きっとするだろう。大きな苦しみから解放される喜びは、苦しんだ時間が長ければ長いほど、その味わいも一汐であるはずだ。私は修論に四年間苦しめられている。五年前の自分の決断が間違っていたことを認めるのか。認めよう。私は過ちを犯した。二度も。それは失望と借金を残した。だから、三度目の失敗をしないように、挑戦する機会を自らの意思と決断で放棄するのだ。もう二度と修論に苦しめられることはあるまい。果たしてこのシナリオで良いんだろうか。

 

 最後の言葉が良かった。「果たしてこのシナリオで良いんだろうか。」そう、私は今シナリオを書いているのだ。自分の歴史を物語る時に、この決断がどんな意味を持つのか、考えたいのである。未来の自分を想定して、今現在の自分の振る舞いを判断しようとしているのだ。

 今朝、この話題について母親と話した。母上曰く、完璧で実現不可能な計画を立てるのは幼い頃からの習慣らしい。自分のことは分からないものだ。この悩みは今に始まったことではないのだ。小学生、いや幼稚園の頃から、三つ子の魂百までと言うが、私はついに息絶えるまで、完璧なシナリオ作りを止めないだろうと思う。そして、その出来上がったシナリオ通りに事が運ばないことに苦しめられるだろう。苦しみはサヨナラしたいのだが、まずは自分の習性を認めることが先決だ。認めないと改善も出来ない。

 仏教を思い出そう。善因善果悪因悪果。私は善因善果の法則を固く信じているようである。しかしこの因果の法則は、私個人の意思や選択を超えた、他者との関わりや地域の特質や時代の潮流にも当てはまるのである。私だけがいい思いをする、抜け駆けするのは、仏教では許してないのかもしれない。子供の遊びで、「イチ抜けた」と言ってゲームから降りる時があった。私は幸福競争や健康競争から「イチ抜けた」と言いたいのだろう。私の人生という、あまり面白くないゲームから「イチ抜けた」したいのだ。だからシナリオ作りに勤しんで来たんだろう。詰まらない人生に彩りを添えたい。その思いが私を突き動かしたのか。

 さあて、このシナリオで良いんだろうか?